実は、奈良・法隆寺とキリスト教(イエス・キリスト)が、過去に濃密な繋がりがあったという説が現在までも残されています。
そして、なんと!!
その繋がりを示す根拠がこの法隆寺に残されているというから、さらに驚きです。
夢殿・本尊「救世観音像の胸の十字架」
法隆寺・夢殿の救世観音像の胸の辺りには「十字の木組みがある」のですが、その中心部分には「釘」が打ちつけてあります。
まず、ここからイメージできるものはイエスに打ち付けられた「釘(くぎ)」を連想していまいます。
そして、「十字の木組み」は、イエスが張り付けになった十字架をイメージできます。
ここから、得られることは、イエス・キリストを表現したような仏像であるということです。
さらには、本当に仏像なのか?・・などとも捉えることができます。
「聖徳太子=キリスト」
でましたね。ついに。
これが出てきました!
「聖徳太子=キリスト」・・会心の一撃ですね。
では、いってみましょう。
まず、「聖徳太子の名前」です。
「聖徳太子」は後世の人がつけた名前ですが、本名とされる「厩戸皇子(うまやど)」からは、「馬小屋で生まれたと言われるキリストを連想」することができます。
しかし、残念なことに、聖徳太子が生きていた西暦600年前後に、日本にキリスト教が伝わったとか、信者がいたとかという決定的な証拠は現在のところ、まだ発見できていないのだそうです。
他にも、法隆寺が向いている方位や地名、聖徳太子や法隆寺にまつわる数字などから、法隆寺がキリスト教を始めとした、その他の古代宗教の影響を受けていると指摘する人が意外に多いようです。
「救世観音像(聖徳太子)」と「もう1つのキリストに打たれた釘」
現在の東院伽藍があるところは、聖徳太子の自宅だった斑鳩宮(いかるがきゅう)があった場所で、聖徳太子亡き後、蘇我入鹿(そがのいるか)に攻められて一族が滅んだ、因縁の場所だと云われています。
その東院伽藍の夢殿に明治時代まで封印されていた御本尊「救世観音像」に注目すると、「キリストに打たれた十字架の釘」を結びつけるような証拠を見ることができるというのです。
その証拠というものが、本尊「救世観音像」の背中にある「光背(こうはい/仏像の後ろの輪っか)」です。
光背は、通常は木をアテがって支えられていますが、ことこの救世観音像の光背にかぎっては、なんと!なぜか「釘」を使用して、まるで誰かを呪うように頭部に打ち付けられて固定されています。
聖徳太子の側近・「秦 河勝」
聖徳太子に生涯において、忘れてはいけない人物が、この「秦 河勝(はた の かわかつ)」です。
秦 河勝は、聖徳太子に付き従い、数々の戦乱をクグリ抜けてきた人物で、朝鮮から日本に渡ってきた「渡来人(とらいじん)」だとも云われています。
しかし朝鮮では、列記とした朝鮮人であるかどうかも定かではないと云われており、謎の多い人物であると云われています。
秦氏は現在のところ、日本と原始キリスト教を紐づける重要な手がかりを持つ人物だと言われています。
その根拠とは、秦氏が、なんと!!原始キリスト(ネストリウス派)の熱狂的な信者であったからです。
さらに、近年の調査によると、驚くこととになんと!
秦氏は朝鮮人ではなく、「ユダヤ人の一族である」との説が、かなりの度合いで濃厚説であるとの結果が発表されています。
奈良・法隆寺と古代ギリシャ(キリスト)を結びつける糸口
実は、法隆寺と聖徳太子の歴史的な研究や古代の宗教がらみの推測論は、謎が謎を呼び起こし、色んな説が飛び交い、大変な騒ぎになっているといいます。
例えば・・
- そもそも聖徳太子は架空の人物(全くの別人)だ
- 聖徳太子の身長の高さからしても日本人ではない
- 法隆寺は「聖徳太子=キリスト」のタタリを恐れた人々が、怨霊を鎮魂し、封印する目的で再建した寺である
- 奈良・法隆寺が仏教とは関わりのない別の目的で建立された
・・などです。
参考文献:梅原猛「隠された十字架」(1972年、新潮社)
法隆寺は謎多き寺!明かされていないことが盛りだくさん💘
以上のような話が現代の法隆寺にまで残されていることをご存知でしたか?
学校で習ったことの外側には未だに研究され、議論されていることがたくさんあるということです。
もともと法隆寺は、聖徳太子の父である用明天皇の病気が治癒することを願って建てられ、その後、聖徳太子も供養し、学問寺として信仰を集めてきたお寺です。
そんな法隆寺に、このような歴史的かつミステリアスな、魅力的溢れる過去があったなんて・・もぅ、胸が熱くなって、明日にでも法隆寺に来たくなりますね!!
今から、おにぎり大サイズを3個作って! アルミホイルで包んで! 明日は、いざっ!!8時から法隆寺へ・・・・行くの?