「奈良・法隆寺(聖徳太子)」と「長野県・善光寺」の意外な関係とつながり

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「奈良・法隆寺(聖徳太子)」と「長野県・善光寺」の意外な関係とつながり

「奈良県の法隆寺」と「長野県の善光寺」。

日本地図で見ても、お互いのお寺は、かなり離れた距離に建立されています。

しかし、驚くことになんと!実は法隆寺と善光寺に、深い繋がりがあった話は、あまり世間一般的に知られていません。

法隆寺・善光寺と聖徳太子(奈良・法隆寺)の意外な関係とつながり↑長野県・「善光寺」

長野県・善光寺が建立された理由

善光寺縁起

善光寺の起こりを伝えるお話は何ともドラマチックなお話なんです。

ご本尊の「一光三光阿弥陀如来(善光寺式阿弥陀三尊)」は、インドから朝鮮を経て、552年に日本に渡った、日本最古の仏像とされています。

↑円覚寺の一光三光阿弥陀如来

↑一光三光阿弥陀如来(引用先:http://blogs.yahoo.co.jp/silverhair1950/)


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しかし、600年頃、崇仏派・廃仏派争いに巻き込まれ、廃仏派の物部氏によって「難波の堀江」に捨てられてしまいました。

その物部氏と争っていたのが、聖徳太子と蘇我氏になります。

当初、物部氏が圧倒的に、戦況を支配していたのですが、戦いが長びくにつれ、趨勢は序々に聖徳太子&蘇我氏に悪くないものになって行きます。

やがて、戦況を掌握し、見事、勝利した聖徳太子は、沈められた「阿弥陀如来」を、斑鳩の宮中に連れて帰ろうと、堀江の前で祈願(お祈り)します。

すると、なんと!阿弥陀如来が水の中から姿を現し、太子に向けてこう言うのです。

しばらくすると私を連れて行くべき者がここに現れる。じゃから私は、今はそれを待とう・・フォっフォっフォっ….ぶくぶくぶく(沈む音)

・・また水の中に戻ってしまいました。

しばらく経ったその後のある日のこと、信濃国司のお供として上洛した「本田善光」が、堀江に差し掛かかった時、なんと!急に水面がざわめき始めるのです・・….ぶくぶくぶく(上がる音)ブクっ!

・・すると、なんと!再び、阿弥陀如来が現れたのです。

そして、こう言うのです。

お前は前世でもインドや朝鮮でワシに遣えておった・・ゴホっ
今、ワシはお前と共に東へ向かい、日本の人々を救おう・・フォっフォっフォっ..ゴホっゴホっ

これを聞いて、心から喜んだ本田善光は、さっそく「阿弥陀如来」を信濃国に連れて帰り、642年にお堂を建てて奉安します。

そして、この話を伝え聞いた人々の間で、序々に評判になり、多くの人がご利益に授かろうと、遠路遥々、参拝に訪れるようになります。

こうして、噂は次々に広まり、もはや当時の日本では、この話を知らない者などいないほどになりました。

そして、この話はついに天皇の耳にも入り、644年、時の天皇である「皇極天皇」は、善光が建てたお堂に「寺院=伽藍(がらん)」の建設を発願(命令)します。

実は、現在でも、このお寺は現存しており、その名前を「善光寺(ぜんこうじ)」といいます。

善光寺の名前の由来は、もうお分かりかと思いますが、本田善光の名前をとり、寺の名前を善光寺としたと云われております。

 

長野善光寺についての詳細は以下の別ページにてご紹介しております。

長野・善光寺「本堂」【国宝】

聖徳太子の手紙と阿弥陀如来の真言

法隆寺には、聖徳太子の「御文箱(手紙が入った箱)」という寺宝があります。

聖徳太子の手紙と阿弥陀如来の真言4重の箱の中に大事に納められ、封印されていて誰も読んだことのないものとされていましたが、明治政府の調査により強引に開封されてしまいました。

開封された後の、現代に至っては、3通のうち1通の手紙だけ、東京の国立博物館に写しが存在するといいます。

ちなみに、この手紙の内容は以下の通りです。

私(聖徳太子)は、父・用明天皇の菩提を弔うため、7日間も念仏を唱えたので、どうかご加護を・・

と、いう内容の手紙を書き、善光寺(阿弥陀如来)に、遣いの者を送ったとの事です。

すると、ご本尊の阿弥陀如来からも、お告げにも似た返答がやって来たのです。

お前の行いは大変素晴らしい。ワシはきっとお前の力になるだろう…フフフ。

と、いう旨の返書があったというのです。

ちなみに、残りの2通の手紙に行方に関してですが、法隆寺としては、永久に開けないことに決めているそうなので、内容は謎のままと云われております。

ただ1点明らかに問題となるのは、この手紙のやりとりが行われた「年」です。

善光寺は644年創建とされていますが、聖徳太子の没年は622年と言われているので、矛盾が生じてしまいます。

そこで以下のような疑問が生じることとなります。

・聖徳太子は定説よりも20年以上長生きだったのか?
・もしくは、上述の聖徳太子と言わる人物は、まったく別の人物なのか?
・それとも、そもそも阿弥陀如来と手紙などというものは実在したのか?
・仮に手紙があったとしても、その内容は確かに上述の内容であったのか?

・・など、現代においても、一切、謎という名のヴェールをまとったままになっています。

いつか、全容解明となるのでしょうか。

終わりに・・

現在、善光寺には創建当初のことがわかる資料が伝承されておらず、現存していないと云われております。

そして、上述の善光寺縁起と聖徳太子の不思議な手紙の話を含めて、聖徳太子の手紙も2通は未だ封印されたままとなっています。

おそらく、この2通の手紙こそが真実へ行き着くための、切符となるのは間違いなさそうなのですがね。

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