奈良 法隆寺・夢殿「行信僧都坐像」【国宝】

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奈良 法隆寺・夢殿「行信僧都坐像」【国宝】

造立年

不明
推定:750年(天平勝宝2年)から767年(神護景雲元年)※奈良時代

像高

88.5㎝

造立方法

脱活乾漆造

国宝登録指定年月日

1952年(昭和27年)3月29日

安置場所

夢殿

法要

行信忌(10月22日)

行信僧都坐像の読み方と別名

法隆寺境内には難しい名前の仏像や堂舎がありますが、行信僧都坐像は「ぎょうしん そうず」と読みます。

行信僧都は名前ではなく、正式には行信と僧都に分けて読みます。

「僧都」とは、624年(推古32年)に、中国の北魏・第8第皇帝「孝明帝(こうめいてい)」が設けた僧侶の位のことです。

この文化が日本へ流入し日本においても僧都の位が設置されています。

行信僧都坐像の歴史・特徴

行信僧都坐像を見れば分かりますが、例えば夢殿安置の「救世観音菩薩像(くぜかんのんぼさつぞう)」や「釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)」、金堂安置の「薬師如来像(やくしにょらいぞう)」と比較すると写実的に造立されているのが分かります。

上記の3仏の衣を例に挙げれば左右対称で造立されており、逆に行信僧都坐像の衣は左右対称とは程遠く、写実的に造立されているのが分かります。

また、棒状の持物を持つ指先の表現の仕方、人間の頭の形(凹み)までもをリアルに表現した造立方法など、奈良時代に造立された仏像の特徴を多く残しています。


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行信とは?

行信とは、739年(天平11年)頃に、上宮王院(じょうぐうおういん/現在の東院伽藍)を創建した人物として知られています。

この事実は法隆寺に伝わる「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」によれば738年(天平10年)頃から東院伽藍の工事を執り行った旨の記述が見つかっています。

東院伽藍と言えば、かつて聖徳太子の斑鳩宮(いかるがきゅう)が存在した場所であり、643年(皇極天皇2年)に蘇我入鹿(そがのいるか)に太子の一族もろとも滅ぼされ焼失しています。

以降、斑鳩宮が存在した場所は野原となり、荒廃しています。

尚、この行信に関しては不明な部分が多く、詳しい生没年に関しては不明とされています。

「脱活乾漆造」とは?

「脱活乾漆造」とは、平安時代以前に造立された仏像の大きな特徴でもあり、漆(うるし/粘土)で塗り固めて造立された仏像のことです。

脱活乾漆造は「脱活」と「乾漆造」とに分けて考えます。

「脱活」とは「空洞」を意味し、すなわち仏像の中身が空洞になっていることを意味します。

また、「乾漆造」とは、木(用材)を造立する仏像の長さに加工して「芯」として用い、その上から麻布を巻いて漆で塗り重ねて大まかな造形をします。

漆が乾けば下図のように木組を挿し込み、最後に木屎漆(こくそうるし)という繊維や木クズを混ぜ込んだ漆を塗り込んで細かな造形をしていきます。

これがを乾けば完成です。

 

画像引用先:http://www5.plala.or.jp/endo_l/bunkazai/butuzou/butuzoseiho_zibutu/butuzo_seihozukai.html

 

行信僧都坐像の安置場所

行信僧都坐像は夢殿に安置されています。

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