中宮寺の歴史(年表)と歩み

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奈良・中宮寺

創建年

  • 不明
  • 推定:607年(推古天皇15年)
再建年

  • 1274年(文永11年/鎌倉時代中期)
  • 1602年(慶長7年/江戸時代初頭)
  • 1968年(昭和43年)※本堂の大規模改築
山号

  • 法興山
宗派

  • 聖徳宗
御本尊

  • 木造菩薩半跏像(如意輪観音/中宮寺・寺伝)
札所番号

  • 聖徳太子霊跡15番
  • 中部尼寺巡り15番
  • 大和北部八十八箇所めぐり別格
  • 神仏霊場巡拝の道 第27番

中宮寺の読み方

法隆寺の境内には難しい漢字の表記で読みにくい名前の仏像やお堂がありますが、中宮寺は「ちゅうぐうじ」と読みます。

しかし、創建当初は「中宮」とだけで読まれていたようです。

「中宮寺」の名前の由来

法隆寺の周辺には、かつて次のような3つのお宮がありました。

  1. 斑鳩宮(いかるがのみや)
  2. 岡本宮(おかもときゅう)
  3. 飽波葦垣宮(あくなみのあしがきのみや)

これら3宮に加えて、実はもう1つ「中宮」と宮が存在したのです。

「中宮」とは?

「中宮」とは単純に上記の3つのお宮を直線上に見た時、中央に位置していたことから聖徳太子が「中宮」と名付けたと云われています。


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中宮寺の御本尊「菩薩半跏思惟像(寺伝如意輪観音)」【国宝】

中宮寺といえば日本はもとより、日本が世界に誇るほどの仏像があります。その仏像こそが中宮寺のご本尊「菩薩半跏思惟像(寺伝如意輪観音)【国宝】」になります。

菩薩半跏思惟像の詳細については以下の別ページにてご紹介しています。

 奈良・中宮寺「木造菩薩半跏思惟像(寺伝・如意輪観音像)」【国宝】

中宮寺の歴史・由来

奈良時代

中宮寺は、法隆寺の夢殿に隣接する形で位置しており、一見すると法隆寺の伽藍の一部とも言えます。

しかし創建当初は、現在の伽藍よりも東方向へ約500mほど移動した辺りに伽藍があったと云われており、つまりは法隆寺とは距離が離れていることから「単独の宮(寺)」であったことが分かります。

単独の宮であったことを示す証拠として、法隆寺の寺伝によると「聖徳太子建立七寺の1つ」に数えられています。

「聖徳太子建立七寺」とは、法隆寺に創建から伝わるとされる「法隆寺資財帳(正式名:伽藍縁起並流記資財帳)」に記載された7つの寺院のことであり、資財帳の冒頭には「推古天皇と聖徳太子が7つの寺を607年に建立した」という旨の記述があり、これが創建の年代を示す証拠の1つとなっています。

【補足】聖徳太子建立七寺の一覧

  1. 法隆寺学問寺(法隆寺/お隣さん)
  2. 四天王寺(大阪市天王寺区四天王寺)
  3. 中宮尼寺(中宮寺/ココ)
  4. 橘尼寺(橘寺/奈良県中部明日香村)
  5. 蜂岳寺(広隆寺/京都市右京区太秦)
  6. 池後尼寺(法起寺/スグそこ)
  7. 葛城尼寺(葛木寺/=現在の「和田廃寺」/奈良県橿原市 和田町)

平安時代

中古時代になると、お隣り法隆寺の末寺に属した関係で「法相律宗」の寺院になります。

しかし、明治維新を境とし、法隆寺の所属を離れ、今度は長谷寺(奈良県桜井市初瀬)の所属に入り、新義派の寺院としての道を歩み始めます。

その後、明治16年に宗規の改正があり、これに伴い、真言宗泉涌寺派(しんごんしゅう せんにゅうじは)に所属することになります。

法隆寺に伝わる「法隆寺別当記」によれば、1101年(康和3年)から1131年(天承元年)にかけて「塔」と「金堂(本堂)」の修理が行われたことが記されています。

鎌倉時代

1264年〜1275年には信如比丘尼(しんにょびくに)が自寺の再興を計画。その一環で法隆寺境内の「網封蔵(こうふうぞう)」へ立ち入り、「天寿国曼荼羅繍帳(国宝)」を発見することになります。

1309年には境内で火災が発生し、ほとんどの寺宝を法隆寺へ移し、以後、再び荒廃の一途をたどります。

室町時代

1532年〜1555年の間に、現在見られるような法隆寺夢殿の隣に隣接する形で境内地を移転させ、以来、皇室(宮家)の皇女が住職として入寺する慣習が開始されています。

この頃を境に世間の注目を集めることになり、徐々に再興への道をたどります。

江戸時代

江戸時代になると幕府からの崇敬も篤く、法隆寺より12石、寺領として46石が与えられています。以来、この敷地が受け継がれ、現在に至ります。

明治時代

明治4年6月に御所号の使用停止の命が下ります。しかし5年後の明治9年に永世禄を賜り、明治22年1月に門跡号の使用を許可されています。

大正時代

大正10年の聖徳太子一千三百年御忌記念事業として、大正5年3月より本堂を中心とした堂宇の大規模な修理が執り行われます。

その4年後となる大正9年12月に無事に完了し、落成を迎えています。

昭和時代

昭和25年11月、お隣りの法隆寺が聖徳太子の理念に基づき、聖徳宗を開き、同じ聖徳太子を本願とするこの中宮寺もそれに随従する形で昭和28年3月10日、聖徳宗に入宗し、新たに聖徳宗門跡寺院としての道を歩み始め今日に至ります。

昭和43年には本堂の大規模な改築が行われ、その3年後となる昭和46年10月10日には聖徳太子ならびに間人皇后の一千三百五十年御忌法要が厳修されています。

中宮寺の創建の理由

中宮寺の創建の理由は、もとは聖徳太子が母である「穴穂部間人皇女」の住まいとして造営した「宮殿」であったと云われており、聖徳太子が晩年を迎える頃には太子の妃の1人である「位奈部橘王(いなべのたちばなのおおきみ)」もこの宮殿に住んでいたと云われています。

ちなみに「穴穂部間人皇女」の読み方はややこしく、頭がオカシくなりかけるので「あなほりべがうまい じんこうおんな」・・などと読み、強引に完結させ次に進みたくなりますが、正式には「あなほべの はしひとのひめみこ」と読むようです。

中宮寺の創建に関しては、西暦650年から700年頃と伝わっており、正しい創建年は不明ですが様々な調査で収集された情報から607年(推古天皇15年)が妥当であると判断されています。

以上、現今の中宮寺は間人皇后および聖徳太子を祀り崇め立てるための寺院として、創建以来、日本有数の尼寺としてその護持に務めているといえます。

中宮寺の再建の回数

中宮寺は様々な調査の結果から、飛鳥時代の後期に1回、平安時代に1回、鎌倉時代に2回、戦国時代に1回といった具合に、繰り返し再建が行われてきたことが明らかにされていますが、一説には、これ以上の再建・改修が繰り返されてきたとも考えられています。

ところで‥‥‥実は近代でも中宮寺のプチ的再建(改修)が行われているのをご存知ですかぃ?

中宮寺の本堂の写真を見られた方は疑問に思ったかもしれませんが、中宮寺の本堂は年代を感じさせない実に綺麗なお姿をしています。

これは1969年(昭和43年)に「高松宮妃殿下」の発願により、造営されたもので当時の最新技術を結集させて造営された建造物です。

昭和43年5月25日と26日には高松宮殿下と妃殿下が下向され、ご臨席の上、その完成落成養法会が盛大に執り行われています。

地震や火事にも強く、温度や湿気の管理も行えることから、国宝の御本尊「如意輪観世音菩薩半跏像」が安置されています。それだけ御本尊の重要度がうかがい知れるということです。

しかしご油断なかれ!おそらくルパン一味は「最新設備」という言葉に対抗意識を燃やしてくるので狙ってくること間違いなし!といえます。フぅ〜〜ジコちゃワぁ〜ん


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中宮から「中宮寺」へ名前があらためられた理由

「中宮」から「中宮寺」へと名前があらためられた理由は不明ですが、穴穂部間人皇女の勅願によるものだと云われています。

平安時代以降の中宮寺は廃れて荒れ果て、かろうじて粗末なお堂に本尊だけがポツンと置かれている状況だったようです。

しかし、1262年(弘長2年)鎌倉時代の初頭に「信如(しんにょ)」と呼称された「尼僧(=比丘尼/びくに)」によって中宮寺の再興が成されています。

現在、中宮寺に伝わる国宝のお宝「天寿国曼荼羅繍帳てんじゅこくまんだらしゅうちょう」も、この信如によって、1274年(文永11年)に法隆寺境内の蔵から発見され、中宮寺に伝来した寺宝として中宮寺へ還しています。

その後、室町時代には歴史上から記録が消えており、戦国時代に再び歴史に登場し、この頃、境内が火事に見舞われた記録があります。

その際、法隆寺の東院伽藍へ移設され、後伏見天皇8世の孫娘「尊智女王(そんちのおおきみ)」が住職(門跡)となって当地で再興されています。

門跡(もんぜき」とは、皇族など身分の高い者が僧侶へ転身し、寺のトップ(住職)になって管理者になることを言います。

以後も中宮寺は「尼門跡寺院」として、現代に至るまでの約1300年もの間、尼寺としての伝統を守りつづけるに至っています。

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