法隆寺・(金堂)釈迦三尊像「釈迦如来と文殊菩薩?普賢菩薩??」【国宝】
造立年
- 西暦601年頃から650年/7世紀前半(飛鳥時代)
- 推定:623年(推古31年)
像高
- 中尊(釈迦如来像):87.5cm
- 向かって右脇侍:92.3cm
- 向かって左脇侍:94cm
- 台座の最下部から光背の最上部までの高さ:約382cm
造り
- 一木造り(台座・光背)
材質
- 銅、鍍金・台座(ヒノキ・クスノキ)
国宝指定年月日
- 1951年(昭和26年)6月9日
作者
- 司馬鞍首止利仏師
安置場所
- 法隆寺・金堂
釈迦三尊像「釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩」の読み方
「釈迦三尊像」は「しゃかにょらいさんぞんぞう」。
「文殊菩薩」は「もんじゅぼさつ」。
「普賢菩薩」は「ふげんぼさつ」と読む。
えぇっ?!金堂・釈迦如来像は法輪寺の御本尊だった?!
実は金堂の釈迦如来坐像は、造立当初は金堂に安置されていましたが、670年頃、法隆寺近くの法輪寺(ほうりんじ)の御本尊として法輪寺に安置されていたとも考えられています。
この理由は670年に起こった火災の際、薬師如来像は焼失しているのですが、この釈迦如来坐像は焼失を免れているからです。
そもそもこの釈迦如来座像を発願したのは、聖徳太子の嫁ハンの豪族・膳氏の娘「膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)」であり、聖徳太子と膳妃が亡くなった後、膳氏の氏寺であった法輪寺に遷され本尊に祀られたと考えられているからです。
そのため火災があった670年頃、火災を免れることができたと言うことになります。
えっ?!「釈迦三尊」の三尊は、定まった仏様ではなかった?!
法隆寺の釈迦三尊像の指定名称は「銅造釈迦如来及両脇侍像(どうぞう しゃかにょらい および りょうきょうじぞう)」といいます。
三尊(さんぞん)とは、その名前の通り中央にお釈迦さまが位置し、その両脇には1仏ずつ別の仏様が並んでいるから「三尊」と言います。
日本の釈迦三尊像は、日本独特の基本的な配置があると云われております。
これらは歴史上の新興宗教などの登場により、宗派によって異なる思想が生まれ、三尊の配置や伝承が異なるようです。
しかし後述するように法隆寺の寺伝によれば、法隆寺に伝承された法隆寺特有の「三尊」の配置が伝えられています。
日本歴史上の「釈迦三尊」の配置
- 向かって右脇侍:「文殊菩薩」
- 向かって左脇侍:「普賢菩薩」
法隆寺・寺伝の「釈迦三尊」の配置
- 向かって右脇侍:「薬王菩薩」
- 向かって左脇侍:「薬上菩薩」
「薬王菩薩」と「薬上菩薩」
日本においては通常「釈迦三尊像」といえば、中尊の釈迦如来と、脇侍の文殊菩薩・普賢菩薩の組み合わせが定番です。
その多くの例として、獅子に乗った姿で表される「文殊菩薩」は「仏陀の知慧の象徴」とされています。
また、「普賢菩薩」は象に乗り、修行など「実践的な面を司る菩薩」です。
しかし法隆寺金堂・釈迦三尊像の「脇侍(きょうじ)」は、動物に乗っていませんし、ポーズもよくある文殊・普賢のペアとは違います。
法隆寺の寺伝ではコチラの2体を「薬王菩薩」「薬上菩薩」と云われているそうですが、釈迦如来の脇侍として「薬王」・「薬上」を配置する例は古代日本にも中国にもありません。
この釈迦三尊像は聖徳太子の病気の平癒を願って造られたものとされていることから、薬王・薬上というのは後世の人々の自己解釈による後付けだと考えられます。
薬上菩薩と薬王菩薩は兄弟だった?!
実はなんと!「薬王菩薩」と「薬上菩薩」は「兄弟仏」だと云われています。
兄ちゃん仏が薬王菩薩で、弟仏が薬上菩薩になります。
双方の菩薩とも薬を用いて、あらゆる衆生の身の内を浄化して救済します。
また、2仏とも「阿弥陀如来の二十五菩薩」であり、「薬師八大菩薩」の一尊にも数えられています。
実は2仏とも現在は修行中の身で修行を終えた後は、薬王菩薩が「浄眼如来(じょうげんにょらい)」に変身を遂げ、薬上菩薩は「浄蔵如来(じょうぞうにょらい)」に変身すると云われています。変身っ!とぅっ!
【参考】仏の位と位の順番
- 如来
- 菩薩
- 明王
- 天
通例では、「薬上菩薩が薬壺」、「薬王菩薩が薬草」を持物として持っていることから、この二仏が薬壺や薬草を持っていれば決定的な証拠になります。
しかしこの2仏が手に持っているのは「玉」のような形状の持物であり、決定的な証拠には至りません。
ご本尊の脇侍でありながら「文殊・普賢」にしても「薬王・薬上」にしても、決め手に欠けるこれらの正体をつきとめる決定打は出るのでしょうか。
釈迦三尊像の特徴
この釈迦三尊像は、もう1つ同じ金堂内に安置されている薬師如来座像と比較されることがあります。
なぜ比較されるのかお分かりになりますか?
ちょっと釈迦三尊像の波打った衣を見てください。
若干の波打ちに狂いはあるものの、全体的に見て均等がとれているのが分かります。
これは左右対称で造像されているからです。
同じく薬師如来坐像の方の衣も見てください。
若干の誤差はあるものの同様に均等がとれているが分かります。
また、上半身から下部にかかる衣の波打ちなどは規則的に造形されていますが、これは当時の規則的に作られた物体から着想を得て造形されていると捉えることができます。
顔面はお馴染みのアルカイックスマイルで造形され、これらは飛鳥様式の典型例とも言うことができます。
まさに飛鳥時代を象徴する仏像としては法隆寺しいては日本、いや、世界屈指の仏像と言えます。
ちなみに、この釈迦三尊像の中央の釈迦像は一説では、聖徳太子を象って(かたどって)造立された仏像だと云われています。
同じく光背の銘文から割り出された作者名
この金堂・釈迦如来像(釈迦三尊像)の光背の背面には、次のような刻銘(銘文の刻字)が見つかっています。
「聖徳太子の母親が他界した後、聖徳太子とその嫁ハンも間もなく病気になってしまい、両親の病気平癒を祈願した息子たちが釈迦三尊像の造像を発願した」
「しかし、残念なことに像の完成前に聖徳太子も嫁ハンも亡くなってしまった」
「よって息子である私たちが、聖徳太子の母親と両親を供養するために釈迦三尊像を623年(推古31年)仏師の止利に彫らせた」
・・との銘文が刻まれています。
この刻銘によって623年(推古31年)に仏師の「司馬鞍首止利(しばのくらつくりのとり)」によって造立された仏像であることが明らかにされています。
平安時代に頭上の天蓋が落下していた?!
この釈迦如来像の真上には、天蓋(てんがい)と呼ばれる重要文化財指定の飾りが据えられています。
この飾りがなんと!平安時代の頃に落ちてきて釈迦如来像の光背部分に当たったと云われています。
その証拠に釈迦如来像の光背は縁が曲がっています。また、その縁に刻まれていた13体もの飛天は見る影もなく変形しています。
天蓋はこの落下で大破し、後、鎌倉時代に再び以前の天蓋を踏襲して再制作されています。
「法隆寺・釈迦如来像(釈迦三尊像)」の安置場所
- 法隆寺・金堂
法隆寺・金堂については以下の別ページにてご紹介しております。
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