奈良県・法隆寺の五重塔の見所(見どころ)「歴史・由来・建築様式(内部の構造)・作った人・作り方・作った理由・特徴」

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奈良県・法隆寺の五重塔の見所(見どころ)「歴史・由来・建築様式(内部の構造)・作った人・作り方・作った理由・特徴」

奈良県・法隆寺の五重塔の見所(見どころ)「歴史・由来・建築様式(内部の構造)・作った人・作り方・作った理由・特徴(仏舎利など)」

創建年

  • 605〜607年(推古天皇13年から15年頃/飛鳥時代)
再建年

  • 680年頃/飛鳥時代【国宝】
重塔の高さ

  • 32.45m
礎石より

  • 約31.5メートル
礎石の高さ

  • 地下1.5m
建築様式(造り)

  • 一軒・五重
  • 雲斗
  • 雲肘木
  • 角垂木
雲斗雲肘木って何?

「雲斗雲肘木(くもと ひじき/くもます くもひじき)」とは、雲の形をした建築の部品のことをいうのでレスぅ。..プぅ。

主に飛鳥時代に用いられたので..プぅ。雲の装飾は槍鉋(やりがんな)を用いて彫られているので..プぅ。

雲斗雲肘木(くもと ひじき)とは、雲の形をした建築の部品のことです。

じゃあ「角垂木」て何?

垂木とは屋根に裏側で屋根を支えるための木のことレス。垂木には加工方法が建築物によって異なり丸く加工を施す「丸垂木」と四角の形の「角垂木(かくたるき)」とに分かれるのレスぅ。…プっ!

角垂木(かくたるき)」て何?

大きさ

  • 三間(5.5m)
屋根造り

  • 本瓦葺
4隅の柱の製作年

  • 1604年(慶長9年/安土桃山時代)
相輪(そうりん)の製作年

  • 1696年(元禄9年/江戸時代初期)
塔の中央の心柱の伐採年

  • 推定594年
1階(初層)裳階(もこし)の素材

  • 板葺
塔の中央の心柱の設置方式

  • 掘立柱(地中埋め込み式)
重要文化財登録指定年月日

  • 1897年(明治30年)12月28日
国宝指定年月日

  • 1951年(昭和26年)6月9日

法隆寺の五重塔は実は「六重塔」だった?!

法隆寺の五重塔を見て、初層(1階)から屋根を数えていくと屋根が6つあることが分かります。

しかし法隆寺の五重塔は「五重塔」として知られています。

これはいったいどう言うことなのか?についてですが、実はなんと!初層部についている屋根は裳階屋根(もこしやね)であり、つまりは「見せかけの屋根」になります。

裳階屋根は別名で「雨打ち」などとも呼ばれることから「雨除け」とも考えられていますが、法隆寺における裳階は少し解釈が異なります。

法隆寺の屋根は平行垂木で組まれており、この平行垂木を支える隅木が屋根の重量を支えきれずに下がってきたそうです。

そこで初層の四隅の隅木の下に「四角に加工した木の棒」をに充てがいました。

しかしこれだと見た目がカッコ悪いので四隅の木の棒を隠すために「連子窓と中央に間口が付いた壁」を四辺へ張り巡らせて木の棒を隠しました。

以上のことを言い換えると、創建当初は法隆寺の金堂や五重塔には裳階が存在しなかったことになり、後に据えられたことになります。

法隆寺の境内の敷地の面積からみる「法隆寺・五重塔の広さ(面積)」

この奈良・法隆寺の境内は「18万7000千平方メートル」あります。

このように、漠然として数字で表すとなかなか分かりにくいものです。

しかし、数の例えに、よく利用される「東京ドーム」を例にあげますと、なんと!!驚くことに「東京ドーム」が、ざっと4個分の敷地の広さを誇ります。

  • 東京ドーム1つ:4万6755平方メートル

五重塔の各層の面積(大きさ)

法隆寺五重塔は3間(5.5m)の正方形をしており、これが最上階となると約半分の大きさになるそうです。

つまり、初層から約50cmから60cmずつ小さくなっていることが分かります。

あまり知られていない、法隆寺五重塔で行われた実験とは?

2006年に法隆寺の五重塔の心柱の実験が行われました。

この実験は具体的にどのような実験かといいますと、心柱の有りと無しの時にマグニチュードいくらぐらいの振動(地震)に耐えられるかの実験が執り行われました。

この実験の結果、驚くべきことが分かります。

なんと!!あの最悪と言われてた「阪神・淡路大震災(兵庫県南部大震災/M7.3)」に、塔身を崩さずに耐えたそうです。

つまり、マグニチュード7.3の振動に耐えたこととなります。

ちなみに、この結果ですが、さらに驚くことになんと!!「心柱が有りの時・無しの時」でも、関係なく耐え切ったそうです。

つまり、法隆寺の五重塔は、自然災害(地震/強風)などの振動を計算されて、造営された重塔であることが判明しています。

他に分かることは、「それだけの技術をもった職人や設計士が存在した」ということになります。

ちなみに、この法隆寺の五重塔の心柱ですが、なんと!おおよそ590年代に伐採されたヒノキ(檜)であることが判明したそうです。

奈良・法隆寺の五重塔の歴史

奈良・法隆寺の五重塔の歴史と構造(建築様式と作り方)

上述でもご紹介しておりますが、法隆寺五重塔は、現存する木造五重塔としては世界最古と云われております。

現在、みることのできる法隆寺の五重塔の塔姿は、火事で全焼した後の「文武天皇4年(700年頃)」と伝えられています。

法隆寺・五重塔をも襲った大火災

実は法隆寺が創建された後、925年に「講堂」と「鐘楼」が、1435年には「南大門」が、落雷により焼失したと云われていますが、幸運なことに以下のような年代に再建されております。

  • 講堂:990年(正暦元年)に再建
  • 東院の鐘楼:1163年/鎌倉時代に再建
  • 西院の鐘楼:1005年から1020年(寛弘2年から寛仁4年/平安時代中頃)
  • 南大門:1438年(永享10年)

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法隆寺五重塔の耐震構造(建築様式と造り方)

法隆寺・五重塔の建築方法「積み上げ構造」の恐ろしさ

法隆寺・五重塔は、「積み上げ構造」と呼ばれる、各重ごとに独立して組み立てたものを重ねて建てる建築方法です。

「積み上げ構造」とは、建物を支えるための木組みだけを組んでゆき、敢えて固定ぜずに組まれた各部材を揺らすとグラグラ♪と、少し揺らぐようにして空間を作って建造していきます。

これは一見、手抜き工事のように見えますが、このようにすることで地震が来ても揺らぐようにして組まれた各部材が機能して地震の揺れを吸収し、簡単に倒壊しないような工夫が凝らせてあります。

1300年以上もこの五重からなる重塔を地震から守ってきたのは、まさしくこの建築方法であります。

余談ですが、逆にガッチリと一体化させ固めてしまう建築方法を「剛構造」といいますが、例えば五重塔に剛構造を用いると高い確率で倒壊してしまいます。

かといっては剛構造がまったく用いられないわけではなく、耐震構造も踏まえた上で現代でも5階以下の建造物には剛構造が用いられることがあります。

そして驚くべき事実ですが、この五重塔のつくり方はなんと!!現代でも「あの有名な建造物に採用されている(真似されている)」というのですから驚きです。

それで、法隆寺・五重塔の何が真似されているの?

これを聞けば腰を抜かしますが、なんと!!!あの「東京スカイツリー」を含めた「世界の高層建造物」にこの法隆寺を元とした重搭の建築方法が採用されています。

それで、法隆寺・五重塔-東京スカイツリー-

これだけ発展した現代の世に1000年以上も前の技術が使われているのには本当に腰を抜かさずにいられません。

どっひゃ~!! 

….。…。

法隆寺・五重塔の建築様式の特徴

心柱(芯柱)

法隆寺・五重塔は、すべて「ヒノキ(檜)」で造られ「芯柱」と呼ばれる1本の柱によって基壇(土台)から最上層(五層目)まで貫かれています。

この芯柱は直径約78㎝の八角形で、材の年輪から年代を測定した結果、なんと!!上述したように「600年頃に伐採されたヒノキである」と伝えられています。

これが事実であれば五重塔の創建よりも100年前のヒノキということになります。

また、初層部の芯柱の下の基壇の中には仏舎利(お釈迦様の骨)が納められています。

Aラインの形状

一見してわかる特徴は、初層(一番下)から上に行くにつれて屋根が小さくなっているということです。

つまり、女性のAラインワンピースのような形になっていることがわかります。

注意点としては、見る際は、少し後ろに下がって距離間とって見てみてください。

容姿がAラインの五重塔は、年代が古い証拠!↑「緩やかにAラインになっているのが分かりますか?」

法隆寺へ訪れる際は、ぜひ、ポケットグラスなどの望遠鏡を忘れずに持参してください。

容姿がAラインの五重塔は、年代が古い証拠!

この五重塔は、現在において幾度も調査が行われてきました。

その調査の結果、五重塔が建立された時代が昔に戻れば戻るほど、一段一段の屋根の大きさの差は大きく異なり、逆に時代が現代へ近づくにつれて、差が小さく(同じに)なっていくそうです。(=逓減率)

つまり、分かりやすくいいますと、以下のようになります。

法隆寺の創建当初 ⇒ やや昔(約1600年/江戸時代初期頃まで)

初層の屋根がもっとも大きく最上層(五層目)の屋根がもっとも小さい(緩やかなAライン)

やや昔(約1600年代) ⇒ 現代

初層の屋根も最上層の屋根も屋根の広さが同寸(同じ)

※注釈※ 五重塔の「逓減率・一覧」

逓減率とは?

五重塔の容姿を表現する時に「逓減率(ていげんりつ)」という言葉を聞くことがあります。

逓減率とは、初層(最下層)の面積(=屋根の広さ)に対しての最上層の面積の割合を意味します。

初層の面積に対して最上層(五層目)の面積が半分であれば逓減率は0.5になります。

逆に0.5→1.0に近づくにつれて最上層と初層が等しくなっていき、Aラインではなくなります。

逓減率(ていげんりつ)=減少率(狭まる率)

逓減率:「0.5~1.0」の五重塔

・奈良・海龍王寺五重塔(700年代半ば):逓減率0.447
・法隆寺五重塔(700年前後):逓減率0.5
・奈良・室生寺五重塔(800年頃):逓減率0.594
・京都・醍醐寺五重塔(951年):逓減率0.617
・山口・瑠璃光寺五重塔(1442年):逓減率0.68
・奈良・興福寺五重塔(1426年):逓減率0.69

海龍王寺五重塔は初層と最上層の面積を比較した場合、半分以下であることがわかります。

逓減率が「0.5~1.0」の五重塔

・京都・東寺五重塔(1644年)
・京都・仁和寺五重塔(1644年)
・栃木・日光東照宮五重塔(1818年/創建は1615年)

江戸時代以降の五重塔は最上層と初層の面積に差がないことが分かります。

最上層(五層目)と初層部の屋根を支えている棒について

最上層の四隅の屋根の下を見ると「龍」や「邪鬼」の装飾が施された木の棒(置物?)が据えられているのが視認できます。

これらの木の棒は創建当初から存在したわけではなく、後世において据えられたものです。

棒が据えられた理由は定かではありませんが、呪い(まじない)の意味や上述したように屋根の補強材として据えられたと考えられています。

尚、法隆寺の金堂にもこのような龍や邪鬼の装飾がみられます。

 

詳細は以下の別ページでご紹介しております。

奈良・法隆寺に動物たちの不思議な彫刻がある??

奈良 法隆寺の五重塔の「作者(作った人)」っていったい誰?

法隆寺の創建は607年、推古天皇と聖徳太子によって建造されたと伝えられています。

しかし670年(天智9年/飛鳥時代)4月30日に法隆寺は火災により全焼し、その後に境内の伽藍すべてが再建されたと伝えられています。

近年に行われた調査の結果、西暦700年頃に再建されたのではないか?と考えられています。

尚、この調査は五重塔や中門の修繕時の廃材や部材などを分析して判明したようです。

法隆寺・五重塔が創建された理由

現代までに伝わる法隆寺創建の理由とは、定説では聖徳太子の父・用明天皇が病気になった際、病気の平癒を祈願するために、薬師如来像を祀る寺院建立を計画したものが法隆寺創建の起源であると伝わっています。

つまりこの五重塔も仏塔であることから、用明天皇の平癒を祈願して造営されたという解釈になります。

人体の異変を科学的に説明できない時代、頼みの綱は何と言っても仏様だったということですね。

しかし、この法隆寺の創建理由や創建年に関しては諸説あり、現代に至っても様々な学説が飛び交い明確にはされていません。

このように法隆寺には謎が多く残されていますが、はるか1400年前から現在に至るまで多くの人々から篤い信仰が寄せられ、大切に護られてきたということだけは事実です。

尚、この法隆寺は1993年(平成5年)に日本初となる「世界文化遺産」の登録指定を受けています。1993~♪恋をしたぁ~、♪ぅぉぉ~..

寺院に重塔がある理由とその由来

あなたがもし寺院に重塔があるのが不思議だと考えていたなら、あなたのニックネームは今日から「博士」です。いや、本当に。

いよっ、博士っ!

・・はい!と、いうワケで、少し脱線してしまいましたが、これも驚くことに、なんと!!寺院の重塔は従来、お釈迦様の遺骨である「仏舎利」を納めるための建物だと云われております。

他にも、五重塔は、そもそも初層(1階)から以下のような仏教的要素のもと、建立されているものであると云われております。

  • 「地(基礎)」
  • 「水(塔身)」
  • 「火(笠)」
  • 「風(請花)」
  • 「空(宝珠)」

これらの5つを「仏教における5大思想」として、仏教の世界観を表現していると云われています。

5大思想を用いることで壮大で果てのない「無限」という仏教の悟りの境地に例えた「宇宙観」を表現しています。

しかし法隆寺・五重塔には「ガラス製の舎利壺」と、これを納めるための「舎利容器」があることが明らかにされています。

舎利容器は上述したように芯柱(心柱)の真下の基壇の中に納められています。

ただし、法隆寺の五重塔には「仏舎利」の代わりに「供養した金や銀」「宝石」などが納められているそうです。

法隆寺五重塔・内部の「塑像(涅槃像)」

「涅槃」とは、「ねはん」と読み、これはお釈迦様が横たわって死に至る姿(入滅/にゅうめつ)のことであり、この姿を仏像として表現したものが「涅槃像」になります。

飛鳥時代や奈良時代では「塑像(粘土造りの像)」を造立する際、材料が限定されていた為か、涅槃像(ねはんぞう)が数多く造立されています。 

その塑像が法隆寺五重塔の内部、心柱の周囲、東西南北の方角に複数、安置されています。

実は、この塑像に関しては当初から安置される予定ではなかったようで、当初は金堂に倣い、東に薬師如来、西に阿弥陀如来、南に釈迦如来、北に弥勒菩薩が安置される予定であったと云われています。

仏像から塑像に急遽計画が変更になった理由としては、遣唐使が日本へ戻った際、中国の塑像を造りの技術者も船に乗船しており、法隆寺へ訪れて技術を伝えたためだと考えられています。

ただし、この五重塔は上述したように創建以降に焼失していることから、当初は本当に仏像が安置されていた可能性も示唆されています。

釈迦の生涯を表した塑像群

これらの塑像は釈迦の生涯を表した塑像群であり、そのうちなんと!80点が国宝に指定されています。

80点というのは少し多い気がしますが、複数の塑像を配して釈迦の生涯を表した場面を表しているためです。

詳しくは、これら複数の塑像を配して釈迦の生涯のワンシーンを演出し、このワンシーンを演出した塑像が東西南北の各方向に1つずつに配されています。

ただし、この「塑像群」を見るためには外から「金網越し」に見ることになりますので少々見づらくなっています。

法隆寺・五重塔「塑像(涅槃像)」については以下↓の当サイトの別ページでご紹介しております。

終わりに・・

いかがでしたか?

法隆寺の境内は広大であり、尚且つ、個々の建造物や仏像をジックリと観察するのはかなりの時間を要します。

しかし事前に少しでも知識を詰め込んでおくことで拝観が幾分かスムーズに行えます。

また、建造物や仏像を観る際でも予備知識が無い状態で見た時とは、あきらかに違った見方ができるハズです。

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