奈良 法隆寺・金堂【国宝】

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奈良 法隆寺・金堂【国宝】

奈良 法隆寺・金堂【国宝】

創建年

  • 不明
  • 推定:593年(推古天皇元年)から709年(和銅2年)※飛鳥時代
再建年

推定:672年以降(天武天皇年代)

建築様式(造り)

  • 入母屋造
  • 二重
高さ

  • 約16m
初層(もこし付)

  • 桁行五間(横幅:約9m)
  • 梁間四間(奥行:約7.5m)
上層(張りぼて)

  • 桁行四間(横幅:約7.5m)
  • 梁間三間(奥行:約5.5m)
屋根の造り

  • 本瓦葺
  • もこし板葺
重要文化財指定年月日

  • 1897年(明治30年)12月28日
国宝指定年月日

  • 1951年(昭和26年)6月9日

法隆寺・金堂の読み方

法隆寺の境内には、おおよそ漢字の羅列で読みにくいお堂や仏像などが安置されています。

そして、ここ法隆寺・金堂は「きんどう」や「こんどう」と読みます。

【補足】「金堂」の名前の由来

よく寺院に行くと本堂のことを「金堂」といいますが、何故、金堂というのでしょうか?

実は本堂を金堂と呼ばれるのは飛鳥時代から平安時代中期にかけてに創建された寺院で多く呼ばれている印象があります。

尚、金堂の意味としては以下の2つが述べられています。

  1. 仏様の姿を表した仏像が金色
  2. 金堂の堂内は仏様の七光にあやかり金色に装飾されている

以上の2つの説が考えられています。

法隆寺・金堂の歴史(年表)「再建・修理」

歴史
607年 用明天皇の病気平癒を願い、息子である聖徳太子が、法隆寺の建立を開始
623年 釈迦如来三尊像 完成
670年 火事により法隆寺が全焼
710年頃 金堂を含む、現在の法隆寺西院伽藍がほぼ完成
1600年頃 豊臣秀頼による修理
1694年 徳川綱吉の母、桂昌院による修理
1934年 昭和の大修理
1949年 解体工事中の金堂で火災が発生し、模写作業中だった壁画が焼損

法隆寺・金堂の見どころ・特徴

「飛鳥様式」と「張りぼて(ダミー)の2F部分」

金堂は2階建てに見えますが、内側には階段も部屋もない、見た目だけの2階建てです。

屋根の軒下には懸魚(けぎょ)がなく、上層部は立派な五重塔と並べて見劣りしないように、または権力の象徴になるお寺の中心的な建物を豪華に見せるために2階建てにしたのではないかと云われています。

また、金堂の柱は回廊の柱と同じ、途中が膨らんだ形のエンタシスの柱です。

エンタシスの柱に関しては、以下↓の当サイトの別ページでもご紹介しておりますので、そちらをご覧下さい。

「飛鳥様式」の建物は、法隆寺、法起寺、法輪寺にしか現存しません。

特徴的な部分を以下に挙げます。

どれも珍しいものなので、ぜひ現地で探してみてください。

「雲斗」「雲肘木」

法起寺「雲肘木(くもひじき)」

法隆寺「雲斗(くもと)」

雲斗雲肘木は「くもとひじき」や「くもます くもひじき」と読み、これは軒の重さを支えるためにある木組み「斗(ます)」や「肘木(ひじき)」になります。

法隆寺金堂の斗と肘木にのみ、槍鉋(やりがんな)という道具を用いて当時の職人が渦模様を彫っています。

「雲」と呼んでいますが、もともと雲を表したものなのかどうかはわかりません。

このような「雲」の形状の肘木や斗は飛鳥時代に造営された建造物の大きな特徴です。

「高欄の卍くずしと人字形割束」

法隆寺「卍くずし」 上層と下層の間に見える、ベランダの柵のような部分を高欄(こうらん)や欄干(らんかん)といいます。

この高欄には少しズラした「卍」を崩したような形がかたどられています。これが「卍くずし」の名称の由来です。

法隆寺金堂の上層部には出入り口も高欄もありますが、既に述べたように豪壮感溢れる見た目を演出するため実用的なものではありません。

つまり、金堂の2階に実際に上がってみても、建物の壁と高欄の間には人が歩き回れる十分なスペースはありません。

その下には、漢字の「人」のような、きれいな曲線の短い柱があり、「人字形割束(ひとじがたわりづか)」と呼ばれています。法隆寺・高欄「人形・束」

この曲線がポイントで、593年(推古天皇元年)建立の四天王寺(大阪市天王寺区四天王寺)にも卍くずしと人字形割束の高欄がありますが、そちらの「人」の部分は直線になっています。


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「入母屋造と寄棟造」

建物の壁の長方形が広い面を正面として、前後に屋根を傾斜させたものを切妻造、四方に傾斜させたものを「寄棟造」といいます。

↓寄棟造

寄棟造り

画像引用先:https://ja.wikipedia.org/

入母屋造の屋根とは、屋根の上の部分は切妻で、下の部分は寄棟の屋根です。

↑入母屋造

 

「本瓦葺」

金堂の上層の屋根を、側面から見てみてください。

本瓦とは、丸瓦と平瓦を組み合わせるもので、檜皮葺や茅葺が主流だった日本に600年代(飛鳥時代)に伝えられた屋根の造り方です。

梅雨や同時期に頻繁に台風が来る日本には、雨漏りしにくいので適した屋根ですが重いのが難点でした。

法隆寺の建造物群は神宮(伊勢)に見られる「神明造り」のような日本独自の木造建築ではなく、中国文化を踏襲して造営された背景があります。

従って、屋根は瓦葺きで重いので地面の上に石造りの基壇(きだん/=土台)を据える必要が出てきます。

法隆寺境内の建造物群を見渡せば、それとなく基壇が据えられているのが確認できるハズです。

このような石造りの基壇を据える様式は中国の建築様式の大きな特徴です。

2階の屋根の下に見える龍のついた柱は、屋根の重さを支えるため、江戸時代につけられたものです。

実は金堂は当初、設計ミスにより屋根が下がってきて倒壊の危機に瀕しています。

これは母屋部分に仏像を安置しておくために天井に空間をつくったため、屋根を支えるための横材(梁/はり)などを通さずに力肘木(ちからひじき)のみで支えようとしたためです。

後に初重に裳階を造って四辺の隅に屋根を支える柱を入れたり、梁を据えています。

初層部の「裳階屋根」

金堂の下層の屋根の下にある、屋根に似たものを「裳階(もこし)」といいます。

雨風から建物を守る庇(ひさし)のような役割を果たすものですが、見た目が豪華になるので寺院の堂舎の装飾としても好まれました。

ただし、上述したように金堂や五重塔に見られる裳階部分は、当初は計画になかったようで、つまりは創建当初の金堂には裳階部分が存在しなかったことになります。

裳階が後に造営された理由は、上述したように創建からしばらく経った後、屋根が下がってきたからです。

屋根を支えるために仕方なく四隅に柱を据えることになりますが、これではあまりにも見た目がブサイクなのでこの柱を隠すために裳階の四辺に連子窓(れんじまど)付きの板壁が据えられることになります。

尚、法隆寺の組物と呼べるものは、金堂、五重塔、中門に見られます。

この中でも金堂の組物は特に注目しなければならず、一見すると手先を持つ出組に見えますが、これは手先とは素直に言えず、隅方向へしか手先が出ていないことに注目できます。

金堂の内部

金堂の内部は裳階部分が廊下部分となり、一応の外陣を形成しています。

さらにその内側に柱が10本立てられて外陣が形成され、その内側には内陣があり、この内陣に須弥壇が置かれています。

内陣

「仏像」と「間」

内陣には以下のような「間(部屋)」と「仏像」が置かれています。

  • 中央の間:釈迦三尊像
  • 東の間:薬師如来像
  • 西の間:阿弥陀三尊像

この仏像の配置は創建当初からの踏襲されるものとして伝えられてきましたが、なんと!一説では、東に阿弥陀がきて中央に薬師、西に釈迦三尊が配置されていた可能性も示唆されています。

中央に薬師が配された理由は、法隆寺の創建理由となる用明天皇の病気平癒を祈願したものに由来するからです。

仏像の配置が現在のようになった理由としては、平安後期から鎌倉時代にかけて聖徳太子信仰が盛んになり、太子を祀る東院が伽藍の中心になりかけたためです。

ちなみに聖徳太子信仰とは、聖徳太子を”釈迦”の生まれ変わりとして拝した信仰のことです。

このための対抗処置として現在の配置のように薬師を東へ下げ、中央に釈迦を配し、西に阿弥陀を配したと考えられています。

現代でもアイドルユニットAKB48を代表例として、グループ内のセンター(中央=人気No.1)の位置をめぐって激しい争奪戦が繰り広げられていますが、この時代でも激しいセンター争いが繰り広げられていたことが想像につきます。今年は誰

・・こホンっ!

また、上述したように金堂には2階部分がないので屋根までの高さと空間がありますが、この空間を利用して「天蓋(てんがい/天井から吊り下げる装飾)」が東、西、中央の各間の仏像の頭上に合計で3つ吊られています。

この天蓋は3つとも重要文化財の指定を受けており、3つのうち「中の間」と「西の間」は飛鳥時代に制作され「東の間」は鎌倉時代(1233年/天福元年)に制作されたものです。

中の間の天蓋の大きさは幅275センチ、奥行246センチ。西の間の天蓋は幅242センチ、奥行217センチでヒノキ材を用いて制作されています。

このように中央部分に屋根までの空間がとられた理由は、現在でも謎とされ、一説では廟堂(びょうどう=墓)として造営された説も示唆されています。

壁画

また頭貫の上の欄間(らんま)の部分には小壁が据えられ、この小壁にはムフフぅ~んな天女が舞う「飛天画」が20面描かれています。

ただし、各壁に描かれている天女は、実に妖艶で実に激しく熟した美しい2人の天女が舞う姿が描かれており、これらの壁画はすべて同じ構図で描かれています。

つまり、20面すべて同じ壁画となります。

外陣

外陣部分の長押の上にも同様に「阿弥陀浄土」や「極楽浄土」が描かれた壁画が18面描かれていましたが、1949年(昭和24年)の失火によってすべて焼失しています。

 

金堂の再建年と再建の中心人物

この金堂は670年(天智天皇9年)の火災で焼失していますが、672年(天武天皇元年)以降に再び再建されたと考えられています。

再建の中心的な人物として、聖徳太子の嫁ハンの膳氏があげられます。

この当時の膳氏の当主は膳 摩漏(かしわで の まろ)という人物であり、まさにこの人物こそが金堂および法隆寺再建の中心的人物であった可能性が示唆されています。

この理由としては膳氏の氏寺であった法隆寺近くの法輪寺(ほうりんじ)の伽藍の様相が法隆寺と類似しているためです。

例えば、伽藍の配置や心礎(心柱の下に置く礎石)を地下に埋め込む様式、初重に塑像(そぞう)を安置する様式、雲形の組物など、まるで現在の法隆寺が法輪寺の規模を広げてそのまま移築してきたかのようにみえるからです。

金堂の天井板の落書きから見る再建年

1954年(昭和20年)に、この金堂と五重塔の解体工事が執り行われました。

この工事では思わぬ発見があり、天井板の裏側に人の姿の落書きや文字の落書きが発見されています。

さっそく、この落書きがいつ頃書かれたものなのか分析にかけられたところ、なんとぉぅぉ!!オぅぃェ~..672年から690年頃に書かれた落書きであることが判明しています。

落書きの分析は落書きとして描かれた人の着用していた服装が主材料となって分析結果が出されています。

この事実から法隆寺が670年に全焼した説が浮上し、現在では定説になっています。

ちなみに法隆寺が670年に焼失した事実は、著名な古文書である日本書紀にも記されているのですが、「法隆寺創建」という一大スクープについての記述がないのが現在までの謎とされています。

火事で黒コゲになった金堂の壁画

法隆寺金堂の壁画は600年代末の作品とされる世界屈指の価値を持つ仏教壁画でした。

信仰対象としてはもちろん、芸術品として、研究材料としても貴重かつ著名で、明治時代以降、模写も行われていました。

しかし1949年(昭和24年)1月26日、昭和の大修理の真っただ中、金堂で火災が発生し、模写をしていた壁画の大部分が真っ黒になってしまいました。

火事で黒コゲになった金堂の壁画↑奈良 法隆寺・金堂壁画の写真(画像)

ただし、上述ましたが内陣の壁画だけは取り外されて別の場所で保管されていたために奇跡的に火災の難を逃れています。

火元については画家の電気座布団や、蛍光灯の電熱器の可能性が指摘されています。

当時は修理のため金堂の天井は取り外されており、仏像も移動してあったので無事でした。

焦げてしまった壁画は、現在、法隆寺大宝蔵院の隣にある所蔵庫に保存されており、毎年夏の「法隆寺夏季大学」の受講者には特別に公開されています。

法隆寺・金堂壁画の焼損を機に、1950年(昭和25年)に文化財保護法が制定され、1955年(昭和30年)には1月26日が「文化財防火デー」と定められました。

法隆寺では毎年この日に、防火訓練が行われています。

法隆寺・金堂「修正会」

「修正会(しゅしょうえ)」とは、1月(正月)に行われる仏教行事で、僧侶たちが人々に代わって前年の行いを反省し、仏に過ちを懺悔(ざんげ/さんげ)することで許しを請い、五穀豊穣や国家安泰を祈願する法要です。

法隆寺・金堂「修正会」法隆寺金堂の修正会は奈良時代の768年から続く長い歴史を持った年中行事で、毎年1月8日から14日まで行われます。

吉祥天と毘沙門天に懺悔する法要で、「吉祥悔過(きちじょうけか)」とも呼ばれます。

当初は大講堂にて、吉祥天・毘沙門天の絵を前にして行われていましたが、1079年には金堂に安置されている吉祥天像・毘沙門天像が造られ、修正会も金堂で行われるようになっています。

修正会に参加することは法隆寺の僧侶にとって大変名誉なこととされ、法要を行う10名の僧は「金堂十僧(こんどうじっそう)」と呼ばれます。

修正会のお勤めは「六時作法」いい、1日6回行われていましたが、現在は6つのお勤めが朝・昼・晩の3回に集約されています。

このうち拝観時間内であるお昼の法要は、一般の参拝者も見学できます。

午前11時頃、西院伽藍の大講堂から始まり、その後金堂に移動します。

12日から3日間は、このお昼の法要に加えて夜の法要が、事前申し込みをした人を対象に公開されています。

お勤めの中で僧侶たちは、節をつけてお経を唱えたり、杖を持ち、ホラ貝などを鳴らしながら堂内を回ったりします。

終わりに・・

法隆寺iセンターの「シンブルオブジェ」

シンボルオブジェ」とは法隆寺・南大門から出て徒歩約5分くらいの場所にある斑鳩の里の観光案内施設である「法隆寺iセンター」の館内で展示されているものです。

どうしてここで「シンボルオブジェ」の話を持ち出したのかの言いますと、、法隆寺の近藤君の、あイヤイヤイヤ違う違う。「金堂」!!・・の、こホんっ!実物大の入側柱(いりがわばしら)が忠実に再現されたレプリカが展示されているからです。

「入側柱」とは、外の柱よりも1つ内側の柱になります。

このシンボルオブジェは、素材にもコダわりがあり、樹齢約300年前の国内産の檜材(ひのき)を用いて制作されています。

ただし、実際に金堂に使用されているヒノキは生駒の山林で伐採されたヒノキが使用されています。

そして大きな特徴としては、柱全体の形状にあります。

天井部分にあたる組物のあたりがもっとも柱の直径が少なく約48センチメートルになります。

画像引用先:法隆寺iセンター

次いで、柱の中央部分の直径は約63センチメートルあり、地面に接地している部分の直径幅は約59センチメートルになります。

これらの3つ長さを比較して柱を遠目から見た時に、この柱の形状がキャなり(訳=かなり)特徴的であることに気づきませんか?

つまり、柱の中央部分だけが妙に膨れ上がっていることに気づきます。

これは「胴張り」と呼称される古の建築技法で、つまり、これこそが法隆寺を語る上で必ず出てくる「エンタシス」のことです。

エンタシスは柱の景観が美しく見え、古代の寺院に対する美意識の表れとも云われています。

ただしエンタシスの制作には「鐁(やりがんな)」と呼称される道具が用いられ、多大な時間と労力を必要とすることから奈良時代あたりを境に序々に歴史上から姿を消していくことになります。

ちなみにエンタシスを制作している場面も蝋人形を用いて再現されています。

金堂を拝観されてからでも結構ですので、是非!参拝の帰りには法隆寺iセンターに立ち寄ってみてください。

 

法隆寺iセンターについては以下↓の別ページでご紹介しております。

奈良・法隆寺iセンター

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