奈良・法起寺【世界文化遺産】【史跡名勝天然記念物】
創建年
- 不明
- 推定:638年(舒明天皇10年)
山号
- 岡本山
宗派
- 聖徳宗
本尊
- 十一面観音菩薩
創建年
- 舒明天皇10年(638年)
発願者
- 聖徳太子
- 山背大兄王
造営指揮(創建)
- 福亮(僧侶)
別称
- 岡本尼寺・岡本寺・池後寺・池後尼寺
札所指定番号
- 聖徳太子霊跡・17番
- 大和北部八十八ヶ所霊場・第52番
史跡名勝天然記念物指定年月日
- 1993年11月30日(平成5年11月30日)
法起寺の読み方
現在の法起寺は「ほっきじ」「ほうきじ」と読みます。
現在では法起寺の読み方が統一され、正式名として「ほうきじ」と呼称するのが正しいようです。
法起寺の別名
かつてに法起寺には別称があり「岡本尼寺・岡本寺・池後寺・池後尼寺」とも呼称されていたようです。
法起寺の歴史・由来
奈良時代(飛鳥時代)
創建以後、奈良時代の法起寺は「聖徳太子」の名前と庇護のもと、繁栄を極めており、法隆寺と並び政治的な中心地であったと云われています。
法起寺は、現今に至っても付近に位置する法隆寺の管理下の寺院であり、法隆寺同様に世界遺産に指定登録されている寺院です。
その他、周囲を含めた景観が古来の姿を留めており、何より世界遺産に指定登録されていることから国指定の「史跡名勝天然記念物」にも登録されています。
法起寺の創建は古く、638年(舒明天皇10年)と伝えられており、中国・呉の出身の「福亮(ふくりゅう)」・俗称「熊凝(くまごり)」と呼ばれた僧侶によって創建されています。
創建当初の法起寺は「弥勒像」が1つと像を覆うお堂(金堂)だけが建立されていました。
685年(天武天皇14年)になると恵施(えせ)と呼称された僧侶によって三重塔の造営され、706年(慶雲3年)には塔の頂にある「露盤(ろばん)」が設置されています。
平安時代
1081年(永保元年/平安時代後期)には京都から官使が下向し、塔の露盤の刻銘を模写しています。また、この頃、九輪(相輪)の1個が盗難に遭っています。
平安時代中期から鎌倉時代にかけて境内は荒廃し、以後、江戸時代の再建まで田園地帯に飲まれた荒廃した姿だったようです。
鎌倉時代
1233年(天福元年)には塔の相輪の覆鉢(ふくばち)を破壊して法隆寺聖霊院の梵鐘が鋳造されています。
江戸時代
1558年から1570年頃の戦火の類焼により境内は三重塔と本堂を残して灰燼に帰し、その上、法隆寺も衰退したことから、以後、江戸時代まで再建されることなく荒廃して行くことになります。
その約80年ほど経た1678年(延宝6年)に、法起寺の僧侶・真政圓忍(しんせいえんにん)が浄財を集めて三重塔の修理を行い、以降も浄財を集めつづけて1694年(元禄7年)には「講堂」の再建に成功しています。
その後の1863年(文久3年)に聖天堂が造営され再び、従来の繁栄を取り戻して行きます。
よって現在見ることのできる法起寺の姿は、先述した江戸時代の後期に再建時の姿になります。
昭和時代
1982年(昭和57年)には、境内に「収蔵庫」が造営され、本尊である重要文化財の「十一面観音菩薩像」が遷され安置されています。
平成時代
1993年には日本初となる「ユネスコ世界遺産(世界文化遺産)」に「法隆寺地域の仏教建造物」の一角として堂々、登録指定を受けています。
「露盤」の銘文に記載された「岡本宮」の存在
おおよその建造物には、その建造物に造営に携わった職人たちの手によって、建造物のパーツの裏側などに造営年や職人の名前が落書き調で記載されていることがあります。
それがこの法起寺の三重塔の「露盤(ろばん)」から見つかっており、この露盤に刻まれた内容から法起寺の草創した年代が判明したそうです。
現在に至っては、当初の露盤は存在しないことから法起寺の創建年は不明とされてきましたが、1931年に会津八一と言う学者が発表した論文よって706年の創建は間違いではないと発表されています。
この説が正しいとするのであれば、法起寺の前身には寺院ではなく宮殿が造営されており、岡本宮と呼称されていたことになります。
後に聖徳太子の息子の「山背大兄王(やましろのおおえのお)」によって「岡本宮」から「岡本寺」へと改名されており、宮殿を中心とした伽藍が形成されていたと言われています。
法起寺の歴史(年表)
奈良時代
606年 | 聖徳太子、法華経を岡本宮で講義。 |
622年 | 2月22日、太子死去。太子の遺命により岡本宮(山本宮)を寺院へ改築。山背大兄王、大和国田12町、近江国30町を施入す。 |
638年 | 福亮、聖徳太子のために弥勒菩薩1体の造立を発願。時同じく金堂を建造す。 |
685年 | 685年、恵施、伽藍の構想を練る。堂塔の建造を発願。 |
706年 | 3月、三重塔の露盤を制作。 |
724年〜49年 | 岡本尼寺に観音銅像12体の存在が確認される。 |
747年 | 法隆寺資財帳に池後尼寺と記載。 |
771年 | 封戸百戸の施入あり。 |
平安時代
1057年〜67年 | 岡本院、講堂修理に際し、新堂院より寄進あり。 |
1081年 | 2月7日、官使が下向、岡本寺塔の露盤銘を書き写す。 |
1109年〜32年 | 岡本寺、三重塔の相輪が盗難に遭う。以後、地盤、覆鉢を撤去し、法隆寺の蔵へ収納す。 |
1147年 | 岡本寺、講堂が修理される。 |
鎌倉時代
1233年 | 12月4日、岡本寺、三重塔の伏鉢を取り外し法隆寺聖堂院内の鏡を鋳造す。 |
1262年 | 6月10日、岡本寺、三重塔の修理上棟。法隆寺に保管していた露盤を上げる。
本修理の勧進は当初、菩提山の賢了房が担当。引き継いで法隆寺住僧浄教が行なっている。本修理に際し、京都から番匠10人が参加す。 |
1308年 | この頃、岡本領16丁6反と伝える。 |
1338年〜42年 | もと仁和寺の住僧・玄光上人(賢光)、自寺の交衆を辞し持戒の僧侶となり、法起寺の住僧として密教を修す。 |
1347年 | 5月29日、玄光、導師として陵堂供養を厳修す。 |
1350年 | 三重塔1基を残し、金堂、講堂、僧房、廻廊が倒壊す。 5月10日、大阿闍梨・澄遍(玄光上人)が76歳で他界す。 |
室町時代
1552年 | 正月10日、岡本寺の三重塔が再興される。 |
1558年〜70年 | 兵乱により三重塔および本堂を残し、他の御堂は灰燼に帰す。結果、寺領没収される。 |
江戸時代
1677年 | 8月21日、真政律師が法起寺の再興を発願す。法起寺再興由来記を著する。 12月25日、法起寺再興の完成を見ないまま志半ばで真政圓忍律師が他界。 |
1678年 | 3月28日、三重塔の修理が終わる。上棟。 |
1679年 | 4月10日、法起寺住僧・純空恵性律師が他界。 |
1682年 | 8月9日、法起寺住僧・恵海玄忍律師が他界。 |
1692年 | 法起寺金堂の四天王の二天を法隆寺円成院へ移す。 |
1693年 | 9月17日、講堂再興される。法起寺住僧・碩峯が法隆寺へ願書を提出す。 |
1694年 | 碩峯、法起寺大悲堂記を著する。 |
1699年 | 正月28日、法起寺御制札を法隆寺へ願い出る。 |
1701年 | 6月27日、法起寺住僧瑞芳覚洞律師、上太子南林寺にて他界。 |
1706年 | 9月6日、法起寺住僧・本染覚翁律師が他界。 |
1718年 | 10月7日、法起寺の梵鐘を鋳造す。 |
1720年 | 7月10日、大燈台を新調す。 |
1721年 | 2月5日、孝仙湛律師、法起寺へ入寺す。 10月3日、真政の意志を受け継ぎ、法起寺再興に尽力した碩峯密隂律師が他界。 |
1730年 | 11月朔日、法起寺住僧朴雄道亮律師が他界。 |
1736年 | 11月、美濃国今須駐三輪平、法起寺へ聖徳太子御所用と伝える「上代鎧」片足を寄進す。 |
1742年 | 東寺長者、安井門主、法起寺の寺号額を宸筆。 |
1744年 | 9月27日、法隆寺入寺振舞につき法隆寺一山よりご祝儀あり。 |
1747年 | 9月、鐘楼を建立す。 |
1766年 | 11月14日、庫裡より本堂への渡所の造営願いを法隆寺へ提出す。 |
1770年 | 9月、法起寺の妙適が法隆寺五重塔内に法華経を奉納す。 |
1771年 | 3月26日、法起寺入寺の振舞あり。 |
1772年 | 5月25日、法起寺の湛道律師が法隆寺北室院へ転院す。 |
1773年 | 6月23日、法起寺の御制札が破損す。 9月29日、鎮守祠を建立す。 |
1777年 | 正月24日、法起寺三重塔の修復願いを法隆寺へ提出す。 |
1780年 | 5月2日、法起寺がドロボウの被害に遭う。役所へ被害届を提出す。 |
1784年 | 5月13日、三重塔の修理が完了す。落慶法要の厳修を法隆寺へ願い出る。 |
1797年 | 2月16日、法起寺より中宮寺へ太子像を返納す。 |
1801年 | 2月6日、法起寺三重塔の普請願いを法隆寺へ提出す。 |
1803年 | 5月12日、法起寺普請願いを法隆寺へ提出す。 |
1835年 | 5月21日、隆山律師が法起寺住職に就任す。 |
1854年 | 地震発生。三重塔が破損す。 |
1859年 | 11月、隆山律師が法起寺住職を辞任す。 12月25日、戒山律師が法起寺住職に就任す。 |
1863年 | 2月、法起寺の住僧・順光が勧進を行い聖天堂を再建す。 |
1866年 | 5月、びんずる坐像を仏師・乗雲が造立す。 |
明治時代
1862年 | 太政官第274号に基き、本山法隆寺が真言宗の所管となったので法起寺もその影響を受ける。 |
1866年 | 5月、びんずる坐像を仏師・乗雲が造立。 |
1874年年 | 法起寺戒山律師、体力減退により退寺す。 |
1878年 | 5月、法隆寺と共に真言宗西部の所轄を授受す。 |
1881年 | 5月、起戒学が発願し、梵鐘が再鋳造される。 |
1882年 | 6月26日、内務省乙第38号により、法隆寺・興福寺が法相宗として独立。法起寺も法隆寺に随従する形で法相宗として歩みを始める。 |
1897年 | 1月、内務省より三重塔修繕費11915円22銭を下賜す。 3月、三重塔の修理が開始される。 12月、内務省告示第87号により、三重塔、特別保護建造物の指定を受ける。 |
1898年 | 9月、三重塔の修理が完了す。 |
昭和時代
1950年 | 聖徳宗の本山になる。 |
1972年 | 1月、三重塔の修理が開始される。1月18日、三重塔の心礎より舎利容器が発見される。 |
1975年 | 三重塔の修理が完成。 |
1977年 | 7月、観音堂の修理が完了す。 |
1981年 | 4月、収蔵庫建設予定地の発掘を行う。 |
1982年 | 収蔵庫を新造し本尊・十一面観音像(重文)を安置す。 |
平成時代
1993年 | ユネスコ世界文化遺産「「法隆寺地域の仏教建造物」して登録される。 |
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