法隆寺は今まで援助金もなく誰が維持してきた?「法隆寺の歴史(年表など)」

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法隆寺は今まで援助金もなく誰が維持してきた?「法隆寺の歴史(年表など)」

奈良・法隆寺(なら ほうりゅうじ)

奈良・法隆寺(なら ほうりゅうじ)

ユネスコ世界遺産登録年月日

  • 1993(平成5年)世界遺産
ご本尊

  • 釈迦如来
宗派

  • 聖徳宗(総本山)
別名

  • 斑鳩寺/鵤寺
現住職

  • 大野玄妙(2016年1月現在)
敷地(境内)の広さ

  • 約187,000平方キロメートル

奈良・法隆寺の歴史(年表)

法隆寺の創建以来の長~い歴史をまとめて確認してみましょう!

歴史(できごと)
601年 聖徳太子が飛鳥から移住することを決意
605年 斑鳩宮(現在の東院辺り)が完成し、移住
607年 斑鳩宮に隣接する形で斑鳩寺法隆寺)を建立
622年 聖徳太子没
623年 聖徳太子供養のための釈迦如来像が完成
643年 蘇我入鹿が聖徳太子の息子、山背大兄王を襲い、斑鳩宮は消失。聖徳太子の家系は断絶。670年
火事でほとんどの建物が焼失(この時焼失した寺を、若草伽藍と呼ぶ)
710年 この頃までに、現在の西院伽藍がほぼ完成
925年 西院伽藍の大講堂、鐘楼が焼失(その後再建)
1435年 南大門が焼失(その後再建)
1606年 豊臣秀頼による修復事業が行われます。
1694年 徳川綱吉の母、桂昌院による修復事業が施工されます。
1878年 「法隆寺献納宝物」を皇室に献納、金一万が下賜される
(廃仏毀釈の風潮により寺が荒れ果てるのを防ぐため)
1934年-1985年 1934年から(戦争を挟んで1985年まで)昭和の大修理
1939年 若草伽藍発掘
1949年 解体中の金堂で火災が発生、壁画が焼損
1993年 日本で初めて世界文化遺産に登録

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奈良・法隆寺「1400年存続の秘密」

ところで奈良・法隆寺の檀家制度はあるの??

結論から申し上げますと法隆寺に「檀家(だんか)」はありません。

従って「お墓」もありません。

これは同じ奈良県内の「東大寺」、「薬師寺」も同様に檀家がありません。

檀家とは??

「檀家(だんか)」とは、詳しくは「壇越(だんのつ/だんおつ)」のことを指し示します。
「壇越」の意味とは、「謝礼(お布施/金銭)」を寺院へお渡しして、先祖供養などを寺院にお願いすることです。

「壇越」の語源はインドの梵語の「ダーナパティ」という言葉からきているとされ、「寺院を庇護する者」という意味になります。

もっとも、古来では裕福ではない家もあったので、寺院の僧侶へ、金銭の代わりに衣服を提供するなど、物を渡していたと云われております。

先祖や祖先の供養は、永続するものなので、「壇越」の際に「寺院」と「供養をお願いする側」とで「壇越」の契約を結びます。

その後、時代を経る中で「壇越」という呼び方は、鎌倉時代の中頃を境に、変貌して行き「檀家」と呼ばれるようになったといいます。

ちなみに、お寺が葬式をし、墓を管理するようになるのは、中世以降のことで、檀家制度が整備されたのは江戸時代になってからの事だと云われております。

※中世=1192年(鎌倉時代)から1575年(戦国時代の初頭)

えぇっ?!奈良・法隆寺は学問をする場所だった?!!

実は、伝承によると、奈良・法隆寺は「学問寺」であると云われています。

「学問寺」とは言葉の通り、「学問」を探究(たんきゅう)することです。

釈迦の教えの研究や布教など、お寺の本来の役割を追求し続けてきているんです。

法隆寺が今まで現存してこれた資金源って??

そんな法隆寺にも、江戸時代までは「寺領」と呼ばれる領地からの収入がありました。

中世には門前町で「市(いち)」も開かれて賑わいます。

江戸時代には、寺内の仏像などを江戸まで運んで公開し、将軍家の帰依と寄進を受けるという、当時としては新しい発想で、修理費用を確保しています。

明治時代、廃仏毀釈の波に飲まれそうになった時は、300点以上の宝物を皇室に献納することで下賜金1万円を手に入れ、購入した公債の金利を維持費にしたそう。

こうした僧侶たちの知恵と努力で、法隆寺は幾度もの危機を乗り越えてきたんですね。

現在は寺領こそありませんが、参拝者の拝観料や寄付、住職さんの講演、文化財の出張公開などで収入を得ています(私たちの拝観料1500円も、文化財保護に役立つというわけです)。

法隆寺の別名「斑鳩寺」と、もう1つ「斑鳩寺」??

上述した通り、法隆寺には別名があり「斑鳩寺」といいます。

そして実は、兵庫県にも聖徳太子の手による創建と伝えられる「斑鳩寺」と名の寺院があります。

さらに、驚くことに兵庫県の斑鳩寺の所在地の、その名もなんと!「揖保郡太子町鵤」といいます。

法隆寺の別名「斑鳩寺」と、もう1つ「斑鳩寺」??↑兵庫県・太子町「斑鳩寺」

「兵庫県の斑鳩寺」は法隆寺よりも先に創建されていた?!!

さらに驚くことになんと!

この「斑鳩寺」は法隆寺よりも、先に聖徳太子が建立された寺院だと伝承されています。
歴史のことは、それほど詳しくない人でも法隆寺の名前は知っています。

その法隆寺は世界最古という名前があり、創建がもっとも古いとされる認識があるので、それを考えると、驚くべき事実となります。

兵庫県・太子町「斑鳩寺」の創建年

  • 606年(推古天皇14年)

実はこれには歴史的な由来があり、606年、聖徳太子が推古天皇に法華経の講義をし、播磨国にある水田を賜った縁で建てられたお寺とされ、室町時代までは法隆寺の支院でした(現在は天台宗)。

古来には、貨幣という概念がなく、貨幣が広く流通するまでは、土地そのものが財産となった時代です。

そして、その土地を開墾して田畑を耕し、育てた米が「収入」となりました。

そんなことから、聖徳太子は自らの見識と知恵を活かして難を切り抜け、後に父上のために建てる奈良の法隆寺の財源に積み立てたワケですね。

現在、兵庫県・太子町の斑鳩寺は、創建当初の規模ではなくなっているのが残念ですが、今でも「聖徳殿奥殿」という建物に、「太子十六歳像」が祀られ、古くからの歴史を継承しています。

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