中宮寺「天寿国曼荼羅繍帳(天寿国繍帳残闕 )」【国宝】

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奈良・中宮寺「天寿国曼荼羅繍帳(天寿国繍帳残闕 )」【国宝】

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制作年

  • 不明
  • 推定:622年(推古天皇30年/飛鳥時代)
大きさ

  • 推定:縦2m、横4m※2帳1組(制作当初)
  • 縦88.8cm、横82.7cm(現在)
重要文化財指定年月日

  • 1952年(昭和27年)3月29日
国宝指定年月日

  • 1952年(昭和27年)3月29日
作者

  • 椋部秦久麻(現場監督/製作指揮)
  • 東漢末賢(作業者)
  • 高麗加世溢(作業者)
  • 漢奴加己利(作業者)
発願者

  • 橘大郎女
  • 推古天皇




中宮寺・天寿国繍帳の読み方

「天寿国繍帳」は「てんじゅこくしゅうちょう」、もしくは「天寿国曼荼羅繍帳てんじゅこくまんだらしゅうちょう」と読みます。

「天寿国繍帳」には別名があった?!

当該宝物には、いくつか別名があるようだが、国宝登録名は「天寿国繍帳残闕(てんじゅこくしゅうちょうざんけつ)」 と称する。

ところで・・「繍帳」とは?

繍帳とは「しゅうちょう」と読み、これは刺繍を施した帳(とばり/=垂れ幕)のことを意味します。

中宮寺・天寿国繍帳の歴史・由来

「天寿国繍帳(天寿国繍帳残闕)」は、推定で「622年(推古天皇30年/飛鳥時代)」に制作された中宮寺が誇る寺宝であり国宝の1つです。

発願は聖徳太子の数ある妃のうちの1人である「橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)」と、太子と関わりの深かった「推古天皇」であると云われております。

製作された後は、しばらく本堂にて保管されてきたと思われますが、1274年(文永11年/鎌倉時代)に中宮寺を再興した尼僧・信如によって法隆寺境内の綱封蔵(こうふうぞう)から発見されており、つまりは鎌倉期まで法隆寺の蔵で眠っていたことになります。

なお、この時、信如は突如として法隆寺の蔵へ訪れたとされ、一説では信如の夢に仏様が現れて「法隆寺の蔵へ行きなさい」とのお告げがあったとも云われております。

現在見ることのできる天寿国繍帳の姿は、消失した断片をかき集めて1772から1781年(天保12年/江戸時代中期)に繋ぎ合わせたものであり、正式に額縁に保管されるようになったのが「1919年(大正8年)」になってからのことです。

1952年(昭和27年)には国宝に指定登録、続いて1968年(昭和43年)には中宮寺・本堂が再建され、同時にその際、ガラス張りの「厨子(ずし)」と呼称される入れ物に入れて保管されています。

しかし、保存環境を向上させる目的や研究が進めやすい環境に移すために1982年(昭和57年)に奈良国立博物館に移されています。

従って現在、中宮寺の本堂にある「天寿国繍帳(天寿国繍帳残闕)」は、巧妙にオリジナルを模作した「偽物(レプリカ)」と言うことになります。

天寿国繍帳が作られた理由

天寿国繍帳が製作された理由は、橘大郎女の最愛の夫である聖徳太子が「630年(推古天皇30年)」に、嫁はんよりも先に他界してしまったことに起因します。

具体的には、妻・橘大郎女は夫・聖徳太子の死後の世界を想像し表現することで「夫を偲びたい」と推古天皇に告げ、その願いを聞き入れた推古天皇が勅命を下し、聖徳太子が旅立ったとされる「天寿国(現代でいうところの極楽浄土の世界)」の様相を宮中の女官に描かせた云われております。

ちなみに「橘大郎女」とは推古天皇の孫娘でもあり、読み方については勢いで読むと「たちばな たろうおんな」と思わず読んでしまいますが、正式には「たちばな の おおいらつめ」と読みます。




天寿国繍帳の製作技法

天寿国繍帳は「羅(もじり織り)」と言われる手法で織られた布切れに「下絵(デザイン)」を描き、その上から飛鳥時代の刺繍技法によって図様(絵柄)が表現されており、飛鳥時代の裁縫の技法を惜しみなく汲み取ることができます。

天寿国繍帳の刺繍の技法は「返し縫い」と言う技法で縫われており、これは現代の「返し縫い(返し針)」のことを指します。

「返し縫い」とは、針を「裏面⇒表面⇒裏面⇒表面」と通し、表面から針が出て来た場所から半分くらい針を戻して再び縫い進めると言った、「針を返しながら縫い進める技法」のことです。

えぇっ?!天寿国繍帳の製作年代は実は鎌倉時代だった?!

天寿国繍帳の研究を進めるうちに、なんと!製作当初とは「あきらかに縫い方が異なる箇所」が発見されたそうです。

実は天寿国繍帳が製作さられた当初、1枚ものの布であると思われていたのですが、「使用された布」「縫い方」が製作当初のものとは異なる箇所が見つかっています。

これは時代を経る過程で部分的に破れるなどして消失し、再び別の布を充てがい修復したのではないかと考えられています。

具体的には、製作された当初と模様や生地を似せるために、より高度な縫製技法を用いて後の時代で修復された痕跡であると判断されています。

一説によると、1275年(建治元年)に「修復完成の供養法会」が行われ、1281年(弘安4年)に「中宮寺・落慶(工事完成)」の法要が執り行われたとされており、つまりのところ1275年(鎌倉時代)に修復された可能性が高いと示唆されています。

実は、天寿国繍帳の断片は東大寺・正倉院からも見つかっており、この事実から分かることは過去に幾度となく移動が繰り返されており、これは現物における部分的な消失の原因の1つとして考えられています。

天寿国繍帳の模様の謎と「隠された聖徳太子へのメッセージ」

近年の研究結果により、天寿国繍帳の中の文様には以下のような模様があることが判明しています。

蓮台(れんだい)に乗る仏様、十二神将像、僧侶、一般人、うさぎ、不死鳥(鳳凰)、鐘楼、仏殿、雲、唐草(からくさ)、亀

そしてこれらの模様は、布を広げて1段に2つ、合計で3段の6つに分かれて描かれており、これらの模様の中に、推古天皇・橘大郎女の「太子への思い」や「聖徳太子の人生」「聖徳太子の言葉」が表現されている模様(文様)があることが判明しています。

甲羅に「4つの漢字」が書かれた「亀」の文様の意味

先述した聖徳太子に関わる表現は「亀の甲羅に書かれた4つの文字(漢字)」から汲み取ることができます。

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現在の天寿国繍帳は、ほとんどが破れているため、製作当初の姿を見ることは叶いませんが、当初、100匹の亀の絵柄の刺繍が施されており、その亀の甲羅には縦横に1文字ずつ、合計4文字の漢字が書かれていたそうです。

1匹の亀に4文字の漢字が書かれていますので、4文字×100匹=400文字となり、400文字の漢字が描かれていた計算になります。

これらの文字(漢字)をすべて揃えると「聖徳太子が残した言葉」や「聖徳太子の人生」、「橘大郎女の夫への思い」などが書かれた文字群が完成するそうです。

そして、その他にもなんと!天寿国繍帳の製作を担当した「現場監督者」や「実際に作業を行った作業者の名前」までもが書かれていたようです。

作者

  • 東漢末賢(やまとのあやのまけん)
  • 高麗加世溢(こまのかせい)
  • 漢奴加己利(あやのぬかこり)
現場監督(指揮者)

  • 椋部秦久麻(くらべのはたのくま)




その他の「天寿国繍帳」の有名な言葉

実は現在、天寿国繍帳で見ることのできる亀は5匹ほどであり、文字数にすると20文字程度しか見ることができません。

そのうちの一部を最後にご紹介しておきます。

「孔部間人公」

上記の画像の文字です。聖徳太子の嫁はん=「穴穂部間人皇女」のことです。ここで疑問が出てくるのですが、「孔部間人公」は5文字です。

実は、上述の漢字4文字の構成は、4文字の構成のみで1つ意味が表現されている訳ではなく、別の亀の甲羅に書かれた4文字とつなぎ合わせて1つの意味合いがなっています。

例えば「部間人公」の場合は、「后生名”孔 部間人公”」と言う2匹の亀の甲羅の文字が組み合わさり、1つの意味合いを成しています。

「世間虚仮 唯仏是真」

聖徳太子の辞世の句とも言える有名な言葉です。上記の言葉は3匹の亀で表現されています。

正しくは「王所告”世 間虚仮唯 仏是真玩」となり、この中の「世間虚仮 唯仏是真」だけを抜き出しています。

崩して読むと「世間は虚仮にして、唯仏のみ是れ真なり」となり、その意味は「現世(うつしよ/この世)とは人々が創造した虚造の世界であり、真なるは唯一、仏の存在のみである」となります。

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