【作者はなぜ八角形で造ったのか!】法隆寺「夢殿」の歴史や名前の由来とは?

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奈良 法隆寺・夢殿【国宝】

奈良 法隆寺・夢殿【国宝】

創建年

  • 不明
    推定:739年(天平11年)、もしくは761年(天平11年)以前
再建年

  • 1230年(寛喜2年)※大修理
建築様式(造り)

  • 八角円堂
  • 一重
屋根造り

  • 本瓦葺
重要文化財指定年月日

  • 1897年(明治30年)12月28日
国宝指定年月日

  • 1951年(昭和26年)6月9日
御本尊

  • 救世観音菩薩立像
発願者

  • 聖徳太子
造営指揮

  • 行信(僧都)

法隆寺・夢殿の読み方

夢殿の読み方は「ゆめでん」ではなく「ゆめどの」と読みます。




奈良 法隆寺・夢殿の名称が付けられた理由

夢殿の名称の理由

聖徳太子の家系を「上宮王家」と呼び、東院伽藍の前身である上宮王院の名前はまさにそこから来ています。

当初は夢殿に特別な呼び名はなかったようで、「正堂」「八角円堂」などと呼ばれていました。

この事実は法隆寺に伝わる「東院資財帳」にもハッキリと「瓦葺八角仏殿壱基」の文字が見えます。

「夢殿」という呼称は、聖徳太子が法華義疏(ほっけぎしょ/法華経の注釈書)を作成中に、夢に現れた「金人(きんじん)」に教えを授かったという伝説に由来するものです。

金人とは、釈尊(仏陀)、もしくは金色の仏像、または金色の人の像を指します。

金人とは、仏像、金色の仏像、または金色の人の像を指します

この故事により、完成したこの堂に「夢殿」という名前を付したとのことです。

なお、「夢殿」という名前が付けられたのは平安時代に法隆寺が上宮王院を吸収して合併してから以降とされています。

法隆寺 夢殿の建立目的とは?

聖徳太子の供養

八角形のお堂は、おおむね故人の供養をするために建てられます。

夢殿の創建は聖徳太子没後100年以上経ってからでしたが、斑鳩宮跡が荒廃している様子を残念に思った僧都(そうず/=僧侶の高位者)・行信が、亡き聖徳太子を供養するために造営したと伝えられています。

太子信仰による産物

もう1つの説としては、聖徳太子に対する信仰(太子信仰)が依然として強かったため、参拝する場所を設けたというのが夢殿創建の理由の1つとして考えられます。

聖徳太子の怨霊封じるため?

実はもう1つ「聖徳太子の怨霊を鎮めるため」に造営されたという説もあります。

夢殿創建の2年前(737年)、天然痘という感染症が大流行し、当時政治の中心にいた藤原不比等の4人の息子「藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)」が次々に亡くなるという大事件が起こりました。

これを聖徳太子の怨霊による祟り(たたり)だと考えた人々が、霊をしずめるために夢殿を建てさせたというものです。

法隆寺・夢殿の見どころ・建築様式(造り)・特徴

建築様式「飛鳥様式・八角円堂」

夢殿は、法隆寺の金堂・五重塔・中門の「飛鳥様式」に近い建築様式が特徴的です。

金堂や五重塔と共通の特徴は、2段になっている基壇(きだん/土台部分)、通称「二重基壇」です。

このような2段の基壇は法隆寺のみに見られる特徴であり、飛鳥時代に造営された建造物を示す大きな特徴でもあります。

⬆️法隆寺・金堂の基壇(完全に2段になっている)

ただ、薬師寺(奈良)や四天王寺(大阪)など、奈良時代までに建てられた他の寺院のお堂の基壇は1段になっています。

⬆️薬師寺・西塔の基壇(礎石の上に基壇がのっている)
⬆️四天王寺・金堂の基壇(同じく礎石の上に基壇が1段のっている)

平安時代に栄えた「和様」の建築物には縁側がある建物が増え、基壇はなくなりますが、床下に「亀腹」と呼ばれる基壇の名残のような部分ができます。

八角円堂(八角堂)

夢殿のような八角形のお堂を、「八角円堂」または「八角堂」と呼びます。

夢殿のような八角形のお堂を、八角円堂または「八角堂」と呼びます

夢殿が八角形をしている理由

どこからでも太子を拝することができるようにした

どこからでも拝めるようにできるだけ円に近づけたのだという説があります。

八角形が古代中国の風水(天円地方)の考え方から来ているという説

中国の古代道教には、「天円地方(てんえんちほう)」という考え方があり、これによれば『天は円く、地は方形である』とされます。

すなわち、星の運行が円運動で表されることを、「天は円く」と説いたのです。

一方の「地は方形」の意味とは、古代中国では地の形は方形(四角形)と認識し、「万物を載せる器」と考えていたようです。

また、別の言い方では「神仏との交信を図る建物は円形を用い、人が暮らす世界は方形とする」とも説かれたようです。

「8」という聖数

ちなみに日本にも「聖数」という概念があり、仏教で例えると「8」がつく事柄が多くあります。

正しい修行法とされるのは「八正道(はっしょうどう」、ブッダの誕生日は4月8日、悟りを開いたのは12月8日、「八大菩薩」「八解脱」などという言葉もあります。




屋根の造り「宝形造・本瓦葺」

法隆寺・夢殿のもう1つの大きな特徴として「宝形造(ほうぎょうづくり)」が挙げられます。

宝形造とは、屋根の一番高い中心部分を頂点にして、三角形の面を繋いだ形の屋根のことです。

法隆寺・夢殿・宝形造り

正方形の建物や、六角形、八角形の建物に用いられます。

本瓦葺とは、丸瓦と平瓦を交互に組み合わせた瓦葺きの様式です。

「軒反り」と「軒の出」

鎌倉時代(1230年)に行われた修理により、軒の出」と呼ばれる、建物の壁から屋根が飛び出している部分が深くなったことが明らかにされています。

つまり、鎌倉時代の修理において、創建当初の夢殿の屋根よりも、さらに傾きが急になったことを意味します。

これにより、創建当初のものよりも高さが2mほど高くなり、軒は70cmほど長くなったそうです。

軒反りは鎌倉時代から目立ちはじめた?

法隆寺境内の堂舎群を見渡せば分かりますが、ほとんどの堂舎が軒反りがなく、ストンっと、屋根が下方へほぼ直線状に流れています。

このような軒反りは鎌倉時代から目立ちはじめ、鎌倉時代以降に造営された建造物の特徴を示すものでもあります。

奈良時代以前の屋根の勾配が緩やかなのは中国の建築様式を採用したからですが、その様式も日本の文化や風土に合ったものに変わっていきました。

日本の雨が多い気候に合わせて、水はけを良くして雨漏りを防げるように屋根の勾配を急にし、縁側に雨が降りこんだり雨水が垂れたりしないように、軒も深くなっていきます。

夢殿の改造にも、このような背景があったと考えられます。

夢殿は創建された頃の姿を保っている

鎌倉時代に執り行われた夢殿の修理は大規模なものだったようですが、いつでも古材を用いて天平の姿に復元することができるほど、創建期の姿を踏襲する形で再建されています。

その後の昭和の大修理においても、鎌倉時代に修理した時の様式はそのまま踏襲しており、つまりは現在に至ってもこの夢殿は創建期の姿をとどめている貴重な建造物となりまする。

このような稀有な八角堂はそれほどなく、ましてや奈良時代の意匠を残す八角堂ともなれば探すのが大変なほどのものですが、幸い同じ奈良県の栄山寺(奈良県五條市)にも八角堂が現存し、この堂と合わせて国の重宝とされていまする。

⬆️栄山寺の八角堂【国宝】

画像引用先:https://ja.wikipedia.org/

奈良 法隆寺・夢殿の宝珠

夢殿の屋根の上に、球状の立派な飾りがついているのをご存知ですか?

この飾りは「露盤宝珠(ろばんほうじゅ)」といいます。

奈良 法隆寺・夢殿の宝珠↑法隆寺・夢殿の宝珠「露盤宝珠」の画像(写真)

露盤とは玉の土台のことで、「仏舎利(釈迦の遺骨)」を収めた入れ物を意味します。

宝珠は球の上部を少し尖らせた形で、夢殿の本尊「救世観音像」も持っています。

これは「如意宝珠」といい、願いを叶える力を持つ玉とされ、地蔵菩薩像などの持物として表される他、寺院の塔やお堂の上に取り付けられます。

夢殿の屋根の宝珠に刺さっている無数の針のようなものは「光芒(こうぼう)」と呼ばれる光の筋です。

宝珠の下の皿のような部分は「宝傘(ほうさん)」、その下の膨らみは「宝瓶(ほうびょう)」と呼ばれるものです。

仏様の保護を意味する傘や、お供え用の香水などを入れる瓶の形なのでしょう。

奈良 法隆寺・夢殿の歴史(年表)

法隆寺・夢殿は、奈良時代に造営された法隆寺東院伽藍(とういんがらん)の中心となる堂舎です。

その東院伽藍と言えば、かつて聖徳太子の斑鳩宮が存在した場所です。

歴史
605年(飛鳥時代) 今の東院伽藍がある場所に、聖徳太子が斑鳩宮を建てて移住
607年 法隆寺が創建される。
622年 聖徳太子没
643年 蘇我入鹿による焼き討ちにあい、斑鳩宮焼失。聖徳太子の王子である山背大兄王を始め一族は法隆寺で自決
739年頃(奈良時代) 法隆寺の僧、行信が斑鳩宮跡に夢殿を含む「上宮王院(じょうぐうおういん)」を建立。本尊「観音菩薩立像(救世観音像)」が安置される。
(後に上宮王院は法隆寺に統合される)
700年代末 「夢殿」の呼称で呼ばれ始める
859年頃 道詮による修理
859年頃 道詮による修理
1230年(平安時代) 大修理。夢殿の史上最大規模の修理となった。
鎌倉時代 本尊「救世観音像」の修理
1688年~1704年(江戸時代/元禄期) 本尊「救世観音像」の修理
1884年 明治政府の依頼で調査に訪れたフェノロサの説得で、秘仏とされていた救世観音像を安置する厨子が開けられる。
※厨子:仏像などを収める二枚扉の入れ物
1934年 昭和の大修理。発掘調査も実施され、当時の掘立柱が発見される。
この調査では建物が数棟建てられていたことが明らかになり、東院伽藍の創立当初の回廊や南門の大きさなども明らかにされた。
1951年 国宝に指定

法隆寺夢殿は創建以降、幾度にも及ぶ修理が実施されており、その中でも大修理となったのが1230年の大修理です。

この時の修理にて現在みられるような寺観に整えられています。

主に改造された点
  • 組物を一段上げる形で積み重ねた
  • 軒の部材を新材へと交換
  • 軒の出を増した
  • 屋根勾配を強くした

….etc

1230年の大修理は、組物を一段上げていることから、まず、建立当初と比べると建物の高さが増し、豪壮感をもたせています。

鎌倉時代の野暮ったい作風がよく反映された建造物へと改造されていますが、あくまでも以前の建築様式を踏襲する形で改造されていることから、以前の建物へ戻すこともできるとされます。

法隆寺の夢殿は1934年(昭和9年)に発掘調査が実施されており、その際、堂舎を建てる際に用いられた掘立柱の穴が見つかっており、当時の伽藍配置や規模などが明らかにされています。

謎に包まれた法隆寺夢殿の創建年

「法隆寺東院縁起」によれば、この夢殿の創建は739年(天平11年)とされていますが、学説上ではこの創建年に疑問が持たれています。

推古30(622)年に聖徳太子が49歳で

亡くなってから約100年。

おり、法隆寺東院資財帳に記された夢殿の初見が761年(天平宝字五年)の項に見えることから、少なくとも761年以前の創建とされています。




夢殿内部の安置仏像一覧

奈良 法隆寺・夢殿「本尊・木造観音菩薩立像(救世観音像)」【国宝】

奈良 法隆寺・夢殿・「本尊・木造観音菩薩立像(救世観音像)」

造仏年

  • 推定629年~654年
像高

  • 178.8cm
造立方法

  • クスノキ一木造
  • 金箔押し
作者

  • 不明
救世観音像の読み方

法隆寺の境内は、おおよそ読みにくいネーミングの「お堂」や「仏像」があります。

そして、救世観音像の読み方は、「ぐぜかんぜおんぼさつ)と読みます。

救世観音像の歴史・由来

救世観音像の完成は、夢殿が建立されたとされる739年よりも前で、夢殿に安置されるまでどこにあったのかはわかっていません。

この推定造仏年とはずれが生じますが、聖徳太子が亡くなる622年より前に彫られた、聖徳太子の等身大の像であるとも伝えられています。

髪や衣の一部以外は両腕や手に持っている宝珠まで1本の木材から掘り出す一木造で、下地の上に金箔を押してあります。

「止利式」という、中国北魏(386年~534年)の様式の影響を受けた作品で、アルカイックスマイルと呼ばれる、口元に笑みを浮かべた神秘的な笑み、アーモンド形の目、左右対称性、平たい体つきといった特徴を持ちます。

止利式の仏像として著名なのは、法隆寺金堂の釈迦三尊像です。

一方で救世観音像は、やや釣り目で鼻が大きく、唇が厚く、鼻の下のライン(人中線)が強調されている点が個性的です。

「救世観音(像)」という呼称は、1100年代(平安時代末期)には使われていたようです。

「救世観音」というのが何なのか、また夢殿の観音菩薩立像になぜこの呼称がついたのかについては諸説あり定かではありません。

しかし、聖徳太子に対する信仰が盛り上がる中、「太子は観音様の生まれ変わり」として観音菩薩と同一視する見方もあったようです。

「法隆寺・夢殿「救世観音像」については当サイトの以下↓の別ページでご紹介しております。

関連記事: 法隆寺(夢殿)・救世観音菩薩立像 【国宝】

法隆寺・夢殿「行信僧都坐像」【国宝】

738年頃に上宮王院を建立した「行信(ぎょうしん)」については、あまり詳しくわかっていません。

しかし、738年に律師(りっし/寺院・僧侶を管理する役職の第3位)、その後、僧都(そうず/同第2位)となった、徳のあるお坊さんだったようです。

法隆寺・夢殿「行信僧都坐像」

夢殿には「行信僧都坐像」が安置されています。

毎年10月22日には、命日の法要である「行信忌」が行われます。

859年頃に夢殿を修理した行信は法隆寺で出家し、東大寺で学んだ僧で、晩年は律師になりました。

聖徳太子をあつく敬い、廃れかけていた法隆寺東院の修理と中興に力を注いだといいます。

行信僧都坐像についての詳細は以下の別ページにてご紹介しております。

関連記事: 奈良 法隆寺・夢殿「行信僧都坐像」【国宝】

法隆寺・夢殿「道詮律師坐像」【国宝】

法隆寺・夢殿「道詮律師坐像」

造立年

平安時代

像高

87.3㎝

材質

塑像

国宝登録指定年月日

1953年(昭和28年)3月31日

 

同じく夢殿の西側には「道詮律師坐像」が安置されています。道詮は武蔵国出身で法隆寺東院の院主「寿仁(じゅにん)」に出会い、出家。以来、法隆寺の学僧としての道を歩むことになり、真言密教および三論を修します。

晩年は弟子たちに講義を行うなど法隆寺興隆の礎を築いた人物として知られています。

毎年3月2日には「道詮忌」が行われます。




聖徳太子十六歳孝養像【重要文化財】

造立年

鎌倉時代

像高

91.1㎝

材質

木造

造立方法

彩色、切金

 

夢殿内部の東側にの厨子の内部には、童児姿の像が安置されていますが、この像こそが聖徳太子十六歳の頃を表現したとされる像です。

「孝養(こうよう/きょうよう)」とは、早い話が「親孝行」という意味です。

本像の持物である柄高炉(えごうろ)は、太子の父親である用明天皇の病気の平癒を祈願すると意味合いで造立されたものです。

寂しげでおぼろげな瞳に、こわばった口元をしており、今まさに不安の胸中にある無念さが像容としてにじみ出ています。

一方でこれが貴人だと知らせるためか、肌色で着色されたフっくらとした顔立ちに、肩から下げる袈裟には金泥の団花紋を散らし、切金があしらわれた極彩色で彩られた像です。

奈良 法隆寺・夢殿の紙幣

夢殿が初めて紙幣の図案として採用されたのは1930年の百円札でした。

夢殿が初めて紙幣の図案として採用されたのは1930年の百円札表に聖徳太子の肖像と夢殿、裏に遠望した法隆寺という組み合わせです。

1944年にお札の大きさなどが変更されてもデザインは変わりませんでしたが、1945年に夢殿が消え、聖徳太子が中央に描かれた百円札になりました。

1946年にはまた聖徳太子と夢殿が描かれたデザインが復活し、1950年には表に聖徳太子、裏に夢殿という組み合わせの千円札が出ました。

その後1957年、聖徳太子の肖像は五千円札の表面に採用されましたが、裏面は夢殿ではなく日本銀行になりました。

しかし1958年に一万円札の表面に聖徳太子が登場した時には、夢殿は「すかし」の柄として再度用いられました。

聖徳太子や夢殿の絵の紙幣は現在発行されていませんが、1946年以降のものは今でも使えるようです。

奈良 法隆寺・夢殿「本尊特別公開(特別拝観)」

夢殿・春の特別公開(特別拝観)

・4月11日~5月18日 拝観時間:8:00~17:00

夢殿・秋の特別公開(特別拝観)

・10月22日~11月22日

※拝観時間の1時間延長期間:11月3日まで 8:00~17:00まで

・11月4日から 8:00~16:30

本尊「救世観音像」が見られるのは、毎年上記の期間だけです。

公開期間中は行列ができて20~30分待つこともあるので、時間に余裕を持って行きましょう。

人ごみを避けたい場合は、朝一番や、閉門前に訪れるのもおすすめです。

隅々まではっきり見えるわけではありませんが、保存状態が良く、金箔が残っているのも見てわかります。

奈良 法隆寺・夢殿の拝観料金について

西院伽藍、東院伽藍、大宝蔵院共通

  • 大人1500円
  • 小学生750円
東院伽藍のみ

  • 大人300円
  • 小学生150円
通常の拝観

本尊を囲む厨子(仏壇の扉)は開いていませんが、その周囲に安置されている「行信僧都坐像」「道詮律師坐像」「聖徳太子立像」「聖観音立像」は金網越しに見ることができます。

法隆寺の拝観可能時間

2月22日~11月3日

午前8時~午後17時

11月4日~2月21日

午前8時~午後16時30分




奈良 法隆寺の夢殿の見どころ

しだれ桜

夢殿の前には「しだれ桜の木」があります。

奈良 法隆寺の夢殿の前「しだれ桜」

満開になると向こう側にある夢殿が見えなくなってしまうほど、大きな木です。

「ソメイヨシノ」も素敵ですが、「しだれ桜」も独特の趣があっていいですよね。

実はこの桜、「夢しだれ」というさだまさしさんの歌にも歌われています。

夢殿のしだれ桜を「夢しだれ」と呼んだのは、文芸評論家で俳人の故・山本健吉さんとされています。

詩的で素敵なネーミングですよね。

しだれ桜にも色々な種類がありますが、夢殿の桜は、ソメイヨシノと同じ時期(4月初め頃)に見ごろを迎えます。

【補足】奈良 法隆寺・夢殿をめぐる謎

聖徳太子の怨霊を供養するために夢殿を建てたという説を裏付けるような話は、本尊「救世観音像」にもあります。

時期は判然としませんが、おそらく夢殿に本尊として安置されてまもなく、この救世観音像は秘仏扱いになったと推察されます。

1884年(明治17年)、その姿を最初に拝んだフェノロサによると、像は長さ450mの白い布でぐるぐる巻きにされ、ほこりに埋もれていたということです。

フェノロサが調査に訪れた際にも、「聖徳太子の怒りに触れ、たたりがある」という教えから、僧侶たちは救世観音像のお披露目を、かたくなに拒否したといいます。

フェノロサとは?

アーネスト・フェノロサとは、1878年(明治11年)に25歳の若さで、明治政府がアメリカから招聘した、いわゆる「お抱え外国人」と呼ばれる方です。

フェノロサは、日本美術に心酔してしまい、心底から日本の美術を愛し、日本の古美術品を世界へ紹介することに、その生涯を費やしました。

現在は、滋賀県の三井寺の法明院に永眠されています。

このように法隆寺の僧侶たちが受け継いできた伝統や教えの由来や根拠は定かではありませんが、少なくとも江戸時代に行われた大修理から以降、法隆寺の僧侶たちですら、一度も救世観音像のお姿を拝むことはできなかったと云われています。

秘仏とするだけではなく、「布でぐるぐる巻き」というところに、「やはり怨霊を封印するまじない(呪術)の要素があったのでは」という想像が働きます。

法隆寺の僧侶を恐れさせていた「聖徳太子のたたりがある」という教えも、「夢殿は単に故人を偲び供養するだけの建物ではないのでは」と言う見方もできます。

今は春と秋に誰でもお目にかかれる救世観音像ですが、ひょっとすると本当に「怨霊を封じ込めた像」かもしれないのです。

また1200年代前半(鎌倉時代)に法隆寺の僧、顕真によってまとめられた「聖徳太子伝私記」には、以下のような話も登場します。

  • 救世観音像を彫った仏師が、像の完成後すぐに謎の死をとげた
  • 鎌倉時代に救世観音像を模倣したものを作ろうとした仏師が完成前に亡くなった
  • なぜ秘仏とするだけではなく、布で巻いたのか。
  • 聖徳太子のたたりという伝承はどうして起こったのか。
  • 救世観音像に関わった仏師の死に関する伝承には、どんな意味があるのか。

以上のようにこの夢殿と救世観音像は、今現在に至っても多くの謎が残されたままになっています。

法隆寺・夢殿の場所(地図)

夢殿は西院伽藍と東院の中間地点に位置する「東大門」を出て、さの先の参道を500mほど直進した先に位置します。

夢殿へ入る際は、別途、拝観料金を支払う必要がありますのでご注意ください。

法隆寺は基本、西院へ行く方がほとんどなので拝観と合わせたセット券の販売を行っていますが、東院(夢殿)のみの拝観もできます。

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