法隆寺「綱封蔵(こうふうぞう)」【国宝】

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奈良・法隆寺「綱封蔵」【国宝】

創建年

794年から929年(平安時代前期)

建築様式(造り)

一重・寄棟造
高床式

屋根の造り

本瓦葺

大きさ

桁行九間(奥行き:約18メートル)
梁間三間(横幅:約7メートル)

重要文化財指定年月日

1942年(昭和17年)12月22日

国宝指定年月日

1967年(昭和42年)6月15日

綱封蔵の読み方

法隆寺の境内には難しい漢字の表記で読みにくい名前の仏像や堂舎がありますが、綱封蔵は「こうふうぞう」と読みます。

他に「つなふうぐら」と呼ばれることもある。

網封蔵の名前の由来

網封蔵の扉を開閉するには朝廷の役所の1つである「僧網所(そうごうしょ)」に置かれた僧官の許可が必要な蔵であったことから「網封蔵」と命名されています。

綱封蔵の役割り

網封蔵とは、三綱(さんごう)と呼ばれる高位の僧侶が封をする(管理する)蔵を指します。

三綱とは、寺院全体の管理と運営を行う3つの高位の僧職「上座(じょうざ)・寺主(じしゅ)・都維那(ついな)」のことです。

この蔵には朝廷にもたらされた宝物や経典などを収納していたようです。

往時は網封蔵の中に善光寺分身仏が安置されており、善光寺仏の下を潜って瓦石を投げる「廻壇潜り」というものもあったと伝わる。




綱封蔵の歴史・由来

綱封蔵は当初、綱封蔵ではなく、通常の蔵として機能していましたが、平安時代から鎌倉時代初頭の間に境内にもう1つあった綱封蔵が倒壊したために、この綱封蔵に宝物が移されて管理されるようになっています。

尚、綱封蔵は当初、付近に7棟存在したことが確認されており、現在はその内の1棟だけ現存していることになります。

綱封蔵の建築様式(造り)

綱封蔵は見た通り、高床式の古式で造営された蔵になります。

正面から見れば分かりますが、中央に間口が広がり、左右に漆喰の壁を張り巡らせ、蔵が1つずつ造られています。

このような様式を「双び蔵(ならびくら)」と呼称し、法隆寺に伝承される「法隆寺伽藍縁起ならびに流記資財帳」にはこのような双び蔵が2つ存在した旨の記述が残されています。

綱封蔵として機能していた頃は、出入り口にハシゴが都度、置かれ、蔵の内部へ出入りしていたものと考えられています。

またこの入口を境として、南北に1つずつ蔵があり、つまりはこの1棟で2つの蔵が存在することになります。

また南北それぞれの蔵の出入り口は蔵内で中央に睨み合う形で造られており、つまりは雨風の侵入を極力減少させる工夫が凝されています。

南北それぞれの蔵の周囲は真っ白な漆喰塗りの壁が据えられ、一見するとタネも仕掛けもないように見えますが、なんと!内側の下半分には分厚い板が据えられ、盗難防止対策と内部の収納品の破損を想定した予防対策が図られています。

この他、屋根は化粧屋根裏式で造られ、四辺は倉庫らしく簡素な舟肘木で組まれています。

綱封蔵の内部構造

綱封蔵の内部は3つのエリアに区切られています。

上述したように南北にそれぞれ蔵が1つずつあり、双倉(ならびくら)状態になっています。

南北の蔵の中間には、外部からの出入り口があり、合計で3つのエリアが造られています。

蔵自体の大きさは等しく、横幅約18メートルある蔵を三等分し、各約6メートルの空間ができるように設計されています。

綱封蔵が国宝指定を受ける理由

綱封蔵が国宝指定を受けるもっともな理由としては、日本に現存する「双倉(ならびくら)」は東大寺・正倉院とこの綱封蔵の2棟のみになるからです。

しかし、さらに付け加えるのであれば、上述したように法隆寺の綱封蔵は中央に睨み合う形で蔵の出入り口が造られており、このような様式こそが本来の綱封蔵の姿であるとされているからです。

法隆寺・綱封蔵の場所(地図)

綱封蔵は食堂・細殿の南側、聖霊院を向かい見て右手の方向にあります。妻室の東に隣接する形で位置します。

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