法隆寺 夢殿「救世観音菩薩立像」【国宝】
| 造立年 | 未詳 (推定629年〜655年/ 舒明天皇元年〜斉明天皇元年 ※飛鳥時代) |
|---|---|
| 像高 | 178.8cm |
| 造立方法 | 一木造り、漆箔造り |
| 材質 | クスノキ材 |
| 重要文化財指定年月日 | 1897年(明治30年)12月28日 |
| 国宝指定年月日 | 1951年(昭和26年)6月9日 |
| 作者 | 不明 |
| 安置場所 | 夢殿(法隆寺 東院伽藍) |
「救世」の読み方
「救世」は「くせ」や「ぐぜ」と読む。
「救世」の意味とは❓
「救世」とは「世の苦しみからあらゆる衆生を救済すること」……という意味合いがあるとされる。
「救世」という名前の由来とは❓
聖徳太子の母がみた夢が由来?
聖徳太子は現在の奈良県明日香村にて、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日)に橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれたと伝わる。
太子の生誕については謎な部分も多いのだが、定説では穴穂部間人皇女が池辺雙槻宮(いけべなみつきのみや/現・奈良県桜井市に比定)の中庭にて散策していたみぎり、厩舎の前を通りがかったところで、突如として産気づき、赤子を産んだと伝わる。
厩舎に神気を感得した皇女は、赤子に「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)※日本書紀」や「豊耳聡聖徳」「豊聡耳法大王※いずれも用明天皇記」…等と命名。
殊に、「聖徳太子」という名前は「懐風藻(かいふうそう)」と称する漢詩集が有史上、初出とされる。
したがって、太子の正式名は上記のとおり。
【ピヨ🐣「懐風藻」とは❓】
太子の逝去から129年後の751年(天平勝宝3年)に著されたという日本最古の漢詩集。
そして、これはあまり知られていないことだが、穴穂部間人皇女は自らが懐妊したことを知る直前、「救世観音(ぐぜかんのん)」と称する金色の僧侶が夢枕に立ち、夢から覚めると懐妊していたという。
然るに、その腹の子が聖徳太子になるわけだが、夢で孕ませるという荒技の使い手…ということにも…あ、なっちゃぅ。
法華経典の一文が由来?
救世観音の名前の由来として、法華経典の「観世音菩薩普門品」の中に記される「観音妙智力 能救世間苦」というの文言にあるという見解がある。
意味は次のとおり。
『観音の霊妙、且つ、広大無辺な智慧は、能く(十二分に)世間の(衆生)の苦しみを救う』
法華経は太子の時代にはすでに国家鎮護の経典とされ、平安時代になると釈迦入滅後の末法思想が、にわかに信奉されるようになり、救済を求める人々は貴人のみならず、民間層まで広がった。
このような潮流の中、太子信仰と末法思想が混淆して、いつしか太子が末法世界を救済してくれる‥等の思いが込められ、「救世」の尊名が本像に命名された‥という解釈も超絶素敵に成り立つ♡
救世観音菩薩立像の歴史と解説
夢殿の「救世観音菩薩立像」は、聖徳太子の在世中に作られた、聖徳太子の等身大の像だと伝えられており、然るに聖徳太子と同じくらいの身長をした像ということに‥なっちゃぅ。
※聖徳太子の身長:約180cm
しかし、太子が在世した飛鳥時代の日本人男性の平均身長は約165cmだといわれるが、180cmといえば、現代でも大男に区分されることから、何らかの理由があって180cmにしたのかもしれない。
救世観音菩薩像はいつころ夢殿に安置されたのか❓
諸説あるも、救世観音菩薩立像は739年(天平11年/奈良時代)頃に夢殿に安置され、以来、半ば秘仏扱いだったらしい。
本像は太子逝去後、太子を崇拝する人々によって太子信仰の象徴とされ、記録上では、1227年(鎌倉初期)になって勝鬘会(法要行事の一つ)の本尊として、本像の模像が造立されることになったらしいが、この時を最後に明治時代まで完全秘仏となっていた。
救世観音菩薩立像は太子の呪いを防ぐための封印だった?
太子の逝去後、都で伝染病が、にわかに蔓延し、政治の中心にいた人物も相次いで病に倒れた。
これを聖徳太子の怨霊によるものだと考えた人々は、太子を供養するために夢殿を建てたという、とんでもない説も…あっちゃぅ。
このような聖徳太子の怨霊説が広まったため、救世観音の姿を見た者は聖徳太子の怒りに触れ、神罰が下る等という信仰が素敵に生じ、法隆寺の僧侶すら拝めなかったのだとか。
救世観音菩薩立像に施された封印
1884年(明治十七年)、国から調査依頼を受けたアーネスト・フェノロサ(国のお雇い外国人)と美術評論家の岡倉天心は法隆寺を訪問し、夢殿と救世観音像の公開を法隆寺へ求めた。
しかし、法隆寺は前述の聖徳太子の怨念にまつわる故事を信奉してか、或いは200年間も公開されていない生来、秘仏扱いだった寺の堅い掟・本尊公開への背徳感からか、公開はできないと頑なに拒絶。
しかし以後も公開交渉は長期間にわたって継続されたらしいが、寺の経営とも密接に関係する国の依頼とあっては無碍にはできず、ようやく法隆寺側が折れる恰好で公開に到った。
フェノロサが見た救世観音像の姿
夢殿に入り、本尊が安置される厨子の開扉したフェノロサが見たモノは、木綿布でグルグル巻きにされて立てられていた物体だった。
フェノロサと岡倉は、この物体に巻きつけられた布を剥がしていったところ、ものすごい量の埃が舞い、その中から、冒頭の写真の仏像が現れたのだった。
後にフェノロサはその時の心境や様子を自著の「東亜美術史綱」にて、次のように語る。
「驚嘆すべき世界無二の彫像は 忽ち 吾人の眼前に現はれたり」
「観音像は500ヤード(約457メートル)の木綿の布で巻かれていた」
殊に、「200年」という本像未公開期間については僧侶たちが、代々の先達から受け継がれた噂話の類いらしく、確証はないとか。
救世観音の保存状況は極めて良好
本像は分厚い木綿布でグルグル巻きに巻かれていたことや、日当たりのない厨子の中に安置されていたことも重なり、保存状態はきわめて良好らしい。飛鳥期の美術品としても大変貴重とされる。
救世観音菩薩立像の特徴
【特徴その1】大きな光背と模様
救世観音菩薩立像を見た時に真っ先に視界に入ってしまうものが、お顔の後方に広がる光背です。
この光背は「宝珠」の形をしていますが、これは燃え上がる炎を表現したもので、クスノキ材の一木から造立されたものです。
光背の先の尖った頭頂部には、3本の塔が刻まれおり、この3本の塔を中心として光背左右の外周には「火焔模様(かえんもよう)」、その内側に「唐草模様(からくさもよう)」が描かれています。
【特徴その2】精緻に作られた宝冠
光背部分の装飾と重なっていて正面から見ると少し分かりにくいの頭の上には、精緻に作られた宝冠が乗っています。
この宝冠は金銅の透かし彫りで作られ、正面部にはめ込まれた宝珠は「瑠璃珠(るりだま)」になります。
きわめて精緻な透かし彫りが用いられた事実からしても、この当時、すでに卓越した金細工の技術があった様子が窺える。
道具や技術も現代とは比べ物にならないほど乏しかった時代に、ここまでの金細工を生み出せたことに驚嘆するとともに、太子信仰の偉大さが垣間見える。
【特徴その3】左右対称に設計された像容
救世観音菩薩立像を正面から見ると、アルカイックスマイルや、左右対称の像容をしており、飛鳥様式の特徴を濃く表しています。
例えば、肩から下方へ向けて垂れ下がる衣などは「蕨手(わらびて)」と呼ばれるもので、写実的とは程遠く、見事なほどに左右対称で造立されています。
これは本像を正面から観るように造立されていることを物語っています。
【特徴その4】両手が持つ宝珠と指先の写実性
本像は胸前で両手を組み、その両手ので「火焔宝珠(かえんほうじゅ)」を掴んでいます。
宝珠とは、仏教における「救済」を意味するもの。
然るに、この世の行きとし生けるすべての衆生を余すこと無く、苦しみや病気から救済する…等の意味を有する。
まさにこの救世観音菩薩立像が持つに相応しい宝珠です。
特に注目すべき点は、この火焔宝珠の精巧さもそうですが、火焔宝珠を掴んでいる指先の繊細さにも注目したい💘
やわらかい指を表現するために、なだらかな曲線をもたせるなど、この指先には写実的な一面もうかがえる。
当時の過剰なまでの美意識へコダワリが垣間見える箇所でも…あ、あっちゃぅ。
この火焔宝珠も同様にクスノキ材を用い、最後に漆の金箔押しで仕上げられています。
尚、クスノキ材は飛鳥時代の仏像に多用されている類例が散見され、当地までの輸送手段を勘案すると、この当時、クスノキの大木が法隆寺からほど近い場所に群生していた可能性も推考される。
【特徴その5】S字型のカーブ
救世観音菩薩立像は正面から観るように造られた仏像ですが、横視点からの像容は上半身よりも下半身が前に出ていることが分かります。
然るに、微妙なS字カーブが表現されていることに…あ、なっちゃぅ。
また、光背部分は少し斜めに据えられているため、横から見れば少し手前に傾けられて取り付けられているが視認できる。
このようなS字曲線や光背を傾ける理由は、正面から見た時に躍動感を醸すための工夫とされる。
【特徴その6】丸まった鼻
本像の顔中央の「鼻」の形状に注目してみると、通例の像と比較した場合、かなり大きく、しかも丸まった形状をしていることが分かる。
これは人間の鼻に近しいものがあり、本像が聖徳太子を模して造立されたとする仮説の傍証とも…んグぇ、あ、なっちゃぅ。
救世観音菩薩立像の作者は「止利」??
止利仏師の作とされる法隆寺 金堂の釈迦三尊像と本像を比較した場合、まず、左右対称の像容をしているという類似点が挙げられる。
けれども本像は光背の火焔模様の渦の形状や、彫りの度合いが強く、これらの特徴は止利仏師の彫像には見られず、然るに本像は、止利仏師の作ではないという見解が根強い。
殊に、光背だけは後補として、別の近しい時代で制作された可能性も捨てきれないが、やはり依然として作者、造立年代は未詳とされる。
救世観音菩薩立像は中国・朝鮮の文化の影響が色濃く残る
飛鳥時代は、中国や朝鮮から数多の文化が流入した時代でも…んボぇ、あ、あっちゃぅ。
例えば、本像が「宝珠を胸前にて両手で持つ」という特徴に注目してみると、中国や朝鮮(百済)などでも同様の像容の仏像が見つかっていることから、飛鳥時代に中国や”朝鮮”から”挑戦”する勢いほどに、もたらされたとも推考できる。
年にたった2回の公開?!法隆寺・救世観音の開帳について
夢殿の救世観音菩薩立像は、平安時代後期(1180年頃)には、すでに絶対秘仏として扱われていたらしい。
それ以降は、冒頭で素敵に述べたように鎌倉時代に模像の造立計画があったらしいが、然るに、明治時代にフェノロサと岡倉が法隆寺へ訪れるまでの約800年間、誰も見たことが無かった…ということに‥んグぇ、あ、なっちゃぅ。
尚、現在の救世観音像は年に2回、以下の日程で一般公開されてい…ます。耐 ふぅ
春の一般公開期間
- 4月11日 〜 5月18日
秋の一般公開期間
- 10月22日 〜 11月22日
【ピヨ🐣コメント】
公開初日の午前中と、公開最終日の夕方には法要が営まれる。
救世観音像が安置される場所
救世観音菩薩立像は普段は、夢殿の厨子(ずし)と呼ばれる入れ物の中に安置されていて、お目にかけれない。(夢殿の外側から礼拝)
夢殿内部には他にも仏像が安置される!
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