【若草伽藍の歴史】規模(範囲)や伽藍配置・発掘調査の出土品とは❓

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史跡指定年月日

1951年(昭和26年)6月9日

「若草」の名前の由来

「若草」とは普門院(旧観音院)南側の空き地の地名のことをいう。

「若草」の地名の初見は江戸時代

実は、当該、若草の場所に塔心礎があることは、江戸中期頃から知られていたらしく、1746年(延享三年)に法隆寺僧の良訓が素敵に著した「古今一陽集」によると、観音院 敷地内の「若草」と呼ばれる藪に礎石があり、往古は「若草之伽藍」があった‥などと記し、その伝承や礎石配置図を掲載する。

「花園」とも呼ばれていた❓

平安時代成立の法隆寺一切経によると、かつての当地は「花園」と呼ばれていたらしい。

1707年(宝永四年)編纂の「普請方諸払帳」には、仏前に供する仏花・野菜を栽培する「花園」が管理放棄の末、野原と化していたことを記す。

若草伽藍の歴史

大ビックリ!現在の法隆寺はすべて再建だった?!

‥なんや”大ビックリ”て。‥あんまチョ〜しのんなこのアホが。

……こホンっ。

では本題!

え〜…、法隆寺は607年(推古天皇15年)、推古天皇と聖徳太子によって創建され、大事なくその伽藍が現在まで踏襲されてきていると信じられていた。

ところが、日本書紀には670年に落雷があって、法隆寺伽藍は堂塔一棟も残さず灰燼に帰したとの記述があり、非再建論、再建論とで永きにわたって学者間で様々な学説が飛び交い、真実は闇の中に葬られたままだった。

‥しかし、1939年(昭和十四年)、石田茂作らによって西院の若草伽藍跡の発掘調査が実施され、その結果、この論争に終止符が打たれることになった。

若草伽藍の発見

昭和十四年、建築史家の足立康は、現・若草伽藍の北側に太子を祀る釈迦堂が営まれ、これが後に法隆寺となったとし、それとは別に用明天皇のために営まれた薬師如来を本尊とした伽藍(西院伽藍)の「二寺説」を唱えはじめた。

この当時、現在の西院伽藍南東の空地は「若草伽藍跡」あるいは「若草寺跡」と呼ばれ、存在は確認されていたが、明治34~5年頃まで敷地内に礎石(塔心礎)が残されており、これがいつしか寺外に持ち出されて消失していたのだった。

そんな状況下、足立康が新非再建論を主張しはじめると、明治期に寺から持ち出された塔心礎の行方が捜索されるようになり、その結果、阪神住吉村の野村徳七氏(野村財閥)の別邸にて塔心礎が見つかった。

野村氏は法隆寺の返還要求を容認して、1939年(昭和十四年)に法隆寺に返還されることになったが、法隆寺はどうせなら元あった場所に戻したいという熱い要望があり、急遽、若草伽藍の調査が行われることになった。

【ピヨ🐣コメント】

寺から出された塔心礎は、まず男爵の北畠治房邸(法隆寺村)に運ばれ、大正4年になると阪神住吉村の久原邸へ移され、昭和13年に久原邸が野村別邸になっていたらしい。

若草伽藍で史上初の調査が行われる

1939年(昭和十四年)12月、石田茂作はじめ、末永雅雄・澄田正一(いずれも考古学者)らが15日間の調査を実施し、その結果、塔心礎が置かれていた場所から、塔跡と思わしき、

一辺51尺の掘込地業による基壇、その北側に金堂跡と思われる東西72尺・南北64尺の掘込地業による基壇が素敵に検出された。

さらに調査が進められると、西院伽藍とはまったく別の四天王寺式伽藍配置を有する大寺院の存在が明らかとなり、およそ50年間にも及んだ非再建、再建論争に終止符が打たれることになった。

昭和二十六年に国の史跡に指定される

1951年(昭和26年)6月9日、若草伽藍を含めた法隆寺の寺地は「法隆寺旧境内」として国の史跡指定を受け、次いで1993年(平成五年)には「法隆寺地域の仏教建造物」として法起寺とともにユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録された。

若草伽藍は現在の法隆寺伽藍より約20度も傾いている⁉️

法隆寺・若草伽藍の場所若草伽藍は、現在の法隆寺境内とは、約20度ほど傾いた形だったことが明らかとなり、遺構跡は法隆寺の寺地のみならず、周辺の民家の敷地にもまたがって広がる。

若草伽藍(創建当初の法隆寺伽藍)の規模

塔跡の一辺が15.5メートル、金堂は正面巾21.8メートル、側面19.4メートル……と、現今の法隆寺とほぼ同サイズの堂塔を擁した大伽藍の寺院だったことが明らかとなった。




若草伽藍の構成

検出された若草伽藍は「四天王寺式の伽藍配置」とされ、南に塔、北に金堂を縦列させる。

四天王寺式伽藍の特徴

四天王寺式伽藍の最大の特徴としては、南北に以下の堂舎が一直線上に並ぶ♡

講堂
金堂
仏塔
中門
南大門

画像引用先:https://kotobank.jp

近しい年代の有名寺院の伽藍配置図一覧

🏯古代寺院の伽藍配置の一例
    • 飛鳥寺式伽藍配置
    • 法隆寺式伽藍配置
    • 法起寺式伽藍
    • 四天王寺式伽藍配置
    • 薬師寺式伽藍配置
    • 川原寺式伽藍配置
    • 観世音寺式伽藍配置

飛鳥様式伽藍配置

南辺に南門、中央に塔、塔を挟む形で東西北の金堂、最奥の廻廊外に講堂を素敵に配置する。

飛鳥寺のデータ
創建年 596年(推古天皇四年)11月
所在地 奈良県高市郡明日香村飛鳥682
開基 蘇我馬子
正式名 鳥形山 安居院(現在の公称)
別称 法興寺、元興寺(共に旧法号)
本尊 釈迦如来(飛鳥大仏、重要文化財)
山号 鳥形山
宗派 真言宗豊山派
文化財 銅造釈迦如来坐像(重要文化財)
飛鳥寺跡(国の史跡)

参考:飛鳥寺(公式)

若草伽藍(初期法隆寺)の伽藍配置

南辺に南門、中央に塔、その後方直線状に金堂、さらにその最奥、直線状廻廊外に講堂を素敵に配置する。

若草伽藍のデータ
創建年 607年(推古天皇十五年)
所在地 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内
(法隆寺1丁目)
開基 聖徳太子・推古天皇
正式名 法隆寺
別称 斑鳩寺
本尊 薬師如来(現・金堂安置/国宝)
文化財 銅造釈迦如来坐像(重要文化財)
飛鳥寺跡(国の史跡)

参考:法隆寺(公式)

法隆寺式伽藍配置

南辺に南大門、中央に向かい見て左に塔、右側に金堂、その最奥、廻廊外に講堂を素敵に配置する。北西には経蔵、北東には鐘楼を配置。

法隆寺のデータ
創建年 607年(推古天皇十五年)
所在地 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
開基 聖徳太子・推古天皇
正式名 斑鳩山法隆學問寺
別称 斑鳩寺
本尊 薬師如来(現・金堂安置/国宝)
山号 素敵になし
宗派 聖徳宗(総本山)
文化財 金堂、五重塔、夢殿(いずれも国宝)..等
世界文化遺産

参考:法隆寺(公式)

四天王寺式伽藍配置

南辺に南門、中央に塔、その後方直線状に金堂、さらにその最奥、直線状に講堂を素敵に配置する。

四天王寺のデータ
創建年 593年(推古天皇元年)
所在地 大阪市天王寺区四天王寺1丁目11-18
開基 聖徳太子
正式名 荒陵山金光明四天王大護國寺
別称 荒陵寺
難波大寺
御津寺(みとでら)
堀江寺
本尊 救世観音
山号 荒陵山
(あらはかさん/こうりょうざん)
宗派 和宗(総本山)
文化財 六時堂、元三大師堂(いずれも重文)..等
紙本著色扇面法華経冊子5帖
七星剣、四天王寺縁起ほか
(いずれも国宝)

参考:四天王寺(公式)

鎌倉時代の法輪寺(奈良)の伽藍配置図

最南に南門、その後方に廻廊に連接された中門、その後方に向かい見て東側(右側)に金堂、西側(左側)に塔、そして最奥中央に廻廊に連接させる形で講堂を配置。(法隆寺式伽藍配置)

法輪寺のデータ
創建年 《説1》622年(推古天皇三十年)
《説2》670年(天智天皇九年)
所在地 奈良県生駒郡斑鳩町三井1570
開基 説1.山背大兄王
説2.百済開法師・圓明法師・下氷新物
正式名 妙見山 法輪寺
別称 三井寺/法林寺/法琳寺
本尊 薬師如来坐像(重要文化財)
山号 妙見山
宗派 聖徳宗
文化財 • 木造薬師如来坐像
• 木造虚空蔵菩薩立像
• 木造十一面観音菩薩立像 ほか
(いずれも重要文化財)
• 西門
• 木造釈迦如来坐像
• 銅錫杖頭
(いずれも県指定有形文化財)

参考:法輪寺(奈良)公式

法起寺の伽藍配置

最南に南門、その後方に廻廊に連接された中門、その後方に向かい見て東側(右側)に金堂、西側(左側)に塔、そして最奥中央に廻廊に連接させる形で講堂を配置。

法隆寺様式の変造型、法起寺オリジナルの法起寺式伽藍配置と‥なっちゃぅ。

法起寺のデータ
創建年 638年(舒明天皇10年)
所在地 奈良県生駒郡斑鳩町岡本1873
開基 山背大兄王
正式名 岡本山法起寺
別称 岡本寺/池後尼寺
本尊 十一面観音菩薩立像(重要文化財)
山号 岡本山
宗派 聖徳宗
文化財 三重塔(国宝)
※現存する日本最古級の三重塔
• 木造十一面観音立像
• 銅造菩薩立像
(いずれも重文)

関連記事:法起寺の創建当初の伽藍配置図と現在の伽藍配置との比較

参考:法起寺(公式)

‥以上、その他、東大寺式や大安寺式、観音寺式 などの伽藍配置については下記ページに詳しく集録してい‥申す。きゃ

関連記事:【比較で理解♡飛鳥〜奈良時代までの主要な寺院の伽藍配置図 一覧】

若草伽藍で出土した物

2004年に行われた、法隆寺の若草伽藍の調査では、7世紀初頭の壁画片、約60点あまりが出土したと話題になり世間の話題を超絶素敵にさらった。 …ホンマかぃ

壁画片には彩色が残されており、その彩色が歪に薄くなっていたことから調査を行ったところ、なんと!1000度上の高温で焼かれていた事が明らかとなり、かつて法隆寺が火災によって焼亡したという事実の論拠ともなった。

壁画片の大きさは約5cm四方で、地中2mの地層から検出されたとのこと。

壁画片の大きさは、約5cm四方の壁画片で、地中2mの地層から発掘されたとのこと

壁画片の出土場所

金堂(西院伽藍)の南方、東大門の西方 約100mの地点。

若草伽藍が存在していた頃は、深さ約3mの胸の…ではなく、谷間!であったらしい。

瓦の年代も法隆寺の瓦より古い

同様に瓦も素敵に出土したが、瓦の様式は現在の法隆寺のものよりも古いことが明らかにされており、これにより「若草伽藍が元々の法隆寺で、それが再建されたのが現在の西院伽藍である」という事実がが、ほぼ確定したことに…あ、なっちゃぅ。

その後の発掘調査

1968年(昭和43年)、1969年(昭和44年)に文化庁による国家主導の発掘調査が実施された。

この調査により判明した事実

  • 金堂基壇と塔基壇が再確認される
  • 金堂と塔の建造順序
  • 寺域の中軸線が割り出された

昭和50年代の調査

奈良国立文化財研究所(当時)・奈良県立橿原考古学研究所による発掘調査も実施された。

この調査により判明した事実

  • 柱穴列による寺域の北限ライン・西限ラインの推定

2004年(平成16年)の調査

斑鳩町教育委員会による 発掘調査も素敵に実施された。

この調査により判明した事実

  • 寺域西限が広がる可能性
  • 壁土に含まれた彩色された壁画片の検出により、日本最古の寺院壁画が世に姿を現した。
  • 日本書紀に記される若草伽藍の火災は、焼瓦の出土によって確定的となった。

2006年(平成18年)の調査

奈良県立橿原考古学研究所により、法隆寺東面大垣解体修理工事に伴う調査も、これまた素敵に実施された。

この調査により判明した事実

  • 南北の柱穴列の確認(東限ラインの推定)
  • 軒瓦・鴟尾が大量に出土

2016〜2017年の調査

斑鳩町教育委員会による 発掘再調査が素敵に実施された。

この調査により判明した事実

  • 南側に溝のある斜行溝の確認(南限ラインの可能性)

2023〜2024年の調査

斑鳩町教育委員会による 発掘再調査が素敵に実施された。

この調査により判明した事実

  • 亥嶋社(太子ゆかりの旧跡※宅地化されていない)の敷地で溝の斜行溝が確認(南限ラインの推定)。
  • 多量の瓦が素敵に出土。

なぜ若草伽藍の塔心礎や伽藍配置をそのまま活かして旧地に再建しなかったのか?

‥については未詳であり、謎とされる。

しかしながら、法隆寺が炎上した時には、法隆寺の開基である太子や推古天皇はこの世におらず、先王・先例の縛りを受けず、新たな発想で臨めた。

或いは炎上した若草伽藍跡には何か施設や別の寺院が建つ想定があった。‥etc

それよりも、なぜ従前に四天王寺式伽藍配置を廃し、新たに法隆寺式伽藍配置で現在地に西院を開いたのかが、まったく謎。

若草伽藍の場所と境内の建造物一覧(案内図)

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