法隆寺(夢殿)・救世観音菩薩立像 【国宝】

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法隆寺(夢殿)・救世観音菩薩立像【国宝】

法隆寺(夢殿)・救世観音菩薩立像【国宝】

 

造立年

不明
推定629年-655年(舒明天皇元年-斉明天皇元年/飛鳥時代)

像高

178.8cm

造立方法

一木造り・漆箔造り

材質

クスノキ材

重要文化財指定年月日

1897年(明治30年)12月28日

国宝指定年月日

1951年(昭和26年)6月9日

作者

不明

安置場所

法隆寺・夢殿

救世観音菩薩立像の読み方

法隆寺の境内には、難しい漢字の羅列で表記された仏像や堂舎があり、読みづらいですが「救世観音菩薩立像」の読み方は「くせかんぜおんぼさつりゅうぞう」「ぐぜかんのんぼさつりゅうぞう」と読みます。

「救世」の読み方と意味

救世は「くせ」や「ぐぜ」と読み、これは「世の苦しみからあらゆる衆生を救済すること」の意味があります。

救世観音菩薩立像の説明・解説

夢殿の「救世観音菩薩立像」は、聖徳太子の在世中に作られた、聖徳太子の等身大の像だと言われています。

つまり、聖徳太子と同じくらいの身長をした像ということになります。
※聖徳太子の身長:約180cm

しかし、当時の日本人にとっての180cmはけっこうな大男となることから、何らかの理由で180cmということにしたのかもしれません。

739年(天平11年/奈良時代)に夢殿に納められて以降、「救世観音菩薩立像」は完全なる秘仏であり続けました。

理由は不明ですが、当時、都で伝染病が蔓延し、政治の中心にいた人物も相次いで病に倒れ、これを聖徳太子の怨霊によるものと考えた人々が供養のため夢殿を建てたとも云われています。

救世観音菩薩立像は呪いを防ぐための封印だった?!

上述したように聖徳太子の怨霊説が広まったため、救世観音の「封印」を解くと聖徳太子の怒りに触れ、天罰があると信じられ、法隆寺の僧侶すら拝めなかったのだとか。

その「封印」を解くきっかけになったのは、明治時代、調査のため「フェノロサ」らが法隆寺を訪れ御開帳を迫ったことです。

そして、フェノロサたちは法隆寺の僧侶たちへ、説得に説得を重ね、やっとのことで「秘仏公開」となっています。

つまり、明治時代にフェノロサたちが訪れるまで、誰も見たことがない仏像ということになります。

幸いなこととしては、フェノロサによって発見されるまで、像が布や和紙でグルグル巻きに包まれていたおかげで、救世観音の保存状況は極めて良好だということです。

ちなみにこの布に関してですが、ただの布キレではなく、なんと!!長さ450メートルもの長い布でグルグル巻きにして保存されていたようです。

保存状態が極めて良好であったのも、布が長った分、分厚い布で覆われていたことによって、内部の保存状態が一定に保たれていたことが理由としてあげられます。


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法隆寺・救世観音菩薩立像の特徴

【特徴その1】大きな光背と模様

救世観音菩薩立像を見た時に真っ先に視界に入ってしまうものが、お顔の後方に広がる光背です。

この光背は「宝珠」の形をしていますが、これは燃え上がる炎を表現したもので、クスノキ材の一木から造立されたものです。

光背の先の尖った頭頂部には、3本の塔が刻まれおり、この3本の塔を中心として光背左右の外周には「火焔模様(かえんもよう)」、その内側に「唐草模様(からくさもよう)」が描かれています。

【特徴その2】精密に作られた宝冠

頭の上には、かなり精巧に作られた宝冠が乗っています。

この宝冠は金銅の透かし彫りで作られ、正面部にはめ込まれた宝珠は「瑠璃珠(るりだま)」になります。

この「透かし彫り」が用いられた事実からしても、当時、すでに卓越した金細工の技術があった事実が伺えます。

道具や技術も現代とは比べ物にならないほど乏しかった時代に、このような卓越した金細工を生み出せたことに驚きを隠せません。

【特徴その3】左右対称に設計された像容

この救世観音菩薩立像を正面から見れば分かりますが、アルカイックスマイルや、左右対称で造立されている像容など飛鳥様式の特徴を濃く表しています。

例えば、肩から下方へ向けて垂れ下がる衣などは「蕨手(わらびて)」と呼ばれるもので、写実的とは程遠く、見事なほど左右対称で造立されています。

つまり、この像が正面から観るように造立されていることを物語っています。

【特徴その4】両手が持つ宝珠と指先の写実性

胸前では両手を組み、その両手ので「火焔宝珠(かえんほうじゅ」を掴んでいます。

宝珠とは、仏教における「救済」を意味するもので、すなわち、この世のすべての行きとし生ける衆生を、余すこと無く苦しみや病から救済するといった意味をもちます。

まさにこの救世観音菩薩立像が持つに相応しい宝珠です。

特に注目すべき点は、この火焔宝珠の精巧さもそうですが、火焔宝珠を掴んでいる指先の繊細さにも注目してみてください。

やわらかい指を表現するために、なだらかな曲線をもたせるなど、この指先には写実的な一面が伺え、当時の過剰なまでの美意識へコダワリが垣間見えます。

この火焔宝珠も同様にクスノキ材を用い、最後に漆の金箔押しで仕上げられています。

クスノキ材は飛鳥時代の仏像には、概ね主として使用されている樹木であり、この当時、クスノキの大木が法隆寺の周辺付近に数多く群生していたことが想像につきます。

【特徴その5】S字型のカーブ

救世観音菩薩立像は正面から観るように造られた仏像ですが、横から像容を観ると上半身よりも下半身が前に出ていることが分かります。

つまり、微妙なS字型のカーブが表現されていることになります。

また、光背部分は少し斜めに据えられているため、横から見れば少し手前に傾けられて取り付けられているが分かります。

このようなS字曲線や光背を傾ける理由は、正面から見た時に躍動感を出すために、敢えて用いられています。

この事実からしても当時の卓越した美意識へのコダワリと、過剰なまでの太子への遺徳の念を感じずにはいられません。

【特徴その6】丸まった鼻

この像の像容を見て思った方も多いと思いますが、顔の中央部分の「鼻」の形状が通例の像と比較して見た場合、かなり大きく、しかも丸まった形状の鼻をしています。

この鼻の大きさや形状からして言えることは、この像が聖徳太子を模して造像された像であることの1つの証拠とも言い換えることができます。

通例では見られない鼻の形状をしているということは、この像が実際の聖徳太子の人物像を示した鏡のような存在であるとも言えます。

救世観音菩薩立像の作者は「止利」??

法隆寺・金堂の釈迦三尊像を代表として、上述した左右対称の像容など、止利仏師の様式がみられます。

しかし、光背の火焔模様の渦の形状や、彫りの度合いが強く、これらの様式は止利仏師の仏像には見られない特徴です。

このことから、止利仏師の作ではないと考えられています。

ただし、光背だけ後の時代で造られたとも考えられることから、作者は「不明」とされています。

救世観音菩薩立像は中国・朝鮮の文化の影響が色濃く残る

飛鳥時代には、中国や朝鮮から多くの文化が流入した時代でもあります。

その証拠を位置づけるものの1つとして、なんと!この救世観音菩薩立像がその一翼を担っています。

これがどのようなことかと言いますと、この当時、上述した「宝珠を胸前にて両手で持つ格好の仏像」が中国や朝鮮(百済)などでも出土しており、つまりは中国や朝鮮の文化が日本に伝来した1つの証拠として捉えることができると言うことです。

年にたった2回の公開?!法隆寺・救世観音の開帳について

法隆寺・夢殿「救世観音菩薩立像」は、平安時代の後期(1180年頃)には、すでに絶対秘仏として扱われていたようです。

以降、明治時代(1884年から1886年)にフェノロサ(アメリカの東洋美術史家)が法隆寺へ訪れるまで、長い布でグルグル巻きにされていたということは約700年間、誰も見たことがないということになります。

しかし現在の法隆寺の夢殿では「救世観音」を年に2回、以下の日程で一般の参拝者の方々に特別一般公開(御開帳)しています。

  • 【1回目の御開帳の日程】4月11日から5月18日
  • 【2回目の御開帳の日程】10月22日から11月22日

他にも公開日の初日の朝と、最終日の夕方には法要も営まれます。

「法隆寺・観音菩薩立像(救世観音)」の安置場所

  • 法隆寺・夢殿

救世観音菩薩立像は普段は、夢殿の厨子(ずし)と呼ばれる入れ物の中に安置されています。

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