奈良 法隆寺・金堂(本堂)【国宝】
創建年
- 不明
- 推定:593年(推古天皇元年)から709年(和銅2年)※飛鳥時代
再建年
- 推定:672年以降〜天武天皇年代
- 1600年頃※修理
- 1694年※修理
- 2008年(平成20年)※内陣の修理
建築様式(造り)
- 入母屋造
- 二重
- 初重裳階(もこし)付き
高さ
- 約16m
初層(もこし付)
- 桁行五間(横幅:約9m)
- 梁間四間(奥行:約7.5m)
上層
- 桁行四間(横幅:約7.5m)
- 梁間三間(奥行:約5.5m)
屋根の造り
- 本瓦葺(裳階は板葺)
重要文化財指定年月日
- 1897年(明治30年)12月28日
国宝指定年月日
- 1951年(昭和26年)6月9日
項・一覧
法隆寺・金堂の読み方
法隆寺・金堂は「きんどう」や「こんどう」と読みます。
【補足】「金堂」の名前の由来
よく寺院に行くと本堂のことを「金堂」といいますが、何故、金堂というのでしょうか?
実は本堂を金堂と呼ばれるのは飛鳥時代から平安時代中期にかけてに創建された寺院で多く呼ばれている印象があります。
金堂の意味としては以下の2つが述べられています。
- 仏様の姿を表した仏像が金色
- 金堂の堂内は仏様の七光にあやかり金色に装飾されている
以上の2つの説が考えられています。
法隆寺・金堂の歴史(年表)「再建・修理」
年 | 歴史 |
---|---|
607年 | 用明天皇の病気平癒を願い、息子である聖徳太子が、法隆寺の建立を開始 |
623年 | 釈迦如来三尊像 完成 |
650年 | 仏師・山口直大口(やまぐちのおおぐち)ら金堂の四天王像を造立 |
670年 | 火事により法隆寺が全焼 |
710年頃 | 金堂を含む、現在の法隆寺西院伽藍がほぼ完成 |
719年頃 | 金堂に唐請来の檀像と舎利5粒を施入される |
1077年 | 橘寺の地蔵菩薩像(現、聖霊院)を金堂へ移管す。この年以前の数年間、金堂は閉扉され内部を見た者は誰もいないとも。 |
1078年 | 大講堂で行われていた吉祥悔過が金堂で行われるようになる。橘寺から小金銅仏49体を金堂へ移管す。 |
1097年 | 金堂の仏像(阿弥陀三尊像など)が盗難に遭う。 |
1232年 | 金堂の阿弥陀三尊像の開眼供養が執り行われる。 |
1233年 | 隆詮(りゅうせん)が金堂・東の間の天蓋を製作。 |
1600年頃 | 豊臣秀頼による修理 |
1694年 | 徳川綱吉の母、桂昌院による修理 |
1897年 | 重文に指定される |
1902年 | 金堂壁画の模写が決定す |
1945年 | 金堂の解体修理が開始される |
1949年 | 解体工事中の金堂で火災が発生し、模写作業中だった壁画が焼損 |
1951年 | 国宝の指定を受ける |
1967年 | 焼損した金堂壁画再現事業が発足 |
1968年 | 金堂壁画落成法要が厳修される |
1971年 | 金堂小壁画再現事業が完成 |
1993年 | 法隆寺および付近の法起寺が日本初となるユネスコ世界文化遺産の指定を受ける。 |
2008年 | 金堂内陣の修理が完了す。 |
金堂の創建年は不詳とされていますが、推定で593年(推古天皇元年)から709年(和銅2年)※飛鳥時代に造営されたと推察されています。
法隆寺の創建と共に造営された堂舎であることから、法隆寺で最古の歴史をもつ飛鳥時代の建造物です。
法隆寺に伝わる古文書「金堂日記」によれば、1077年までの数年間、何人たりとも扉を開けることは許されなかったことから、この間は有史上から姿を消しています。
1078年より、金堂にて吉祥悔過が開始されると、新たに吉祥天と毘沙門天が安置されることになり、以降、現在に至るまで、この金堂にて安置されています。
そして、後述していますが、1949年には日本を揺るがすほどのビッグニュースともなった事件がこの金堂内部で起こります。
なんと!1949年(昭和24年)に金堂内部で火災が発生し、内陣外陣の壁画(国宝)が黒焦げになるという最悪の事態に陥いります。
しかしその2年後となる1951年には国宝の指定を受け、さらに1993年にはこの金堂を含む法隆寺伽藍および法起寺が姫路城と時を同じくして日本初となるユネスコ世界遺産の指定を受けています。
法隆寺・金堂の見どころ(特徴・建築様式)
金堂には2階がない!
金堂は2階建てに見えますが、実は1階建です。内部入れば分かりますが、天井まで広い空間ができあがっています。
2階に見せかけた理由は判然としていませんが、以下のような説が述べられています。
- 五重塔と並べて見劣りしないようにとの配慮
- 伽藍もしくは信仰の中心的な建造物として建物を豪華に見せる目的
初層部の「裳階屋根」
金堂の下層の屋根の下にある、屋根に似たものを「裳階(もこし)」といいます。
雨風から建物を守る庇(ひさし)のような役割を果たすものでることから、「雨打/雪打(ゆた)」とも呼ばれます。
このような裳階を据えると見た目が豪華になるので寺院の堂舎の装飾としても好まれました。
ただし、上述したように金堂や五重塔に見られる裳階部分は、当初は計画になかったようで、つまりは創建当初の金堂には裳階部分が存在しなかったことになります。
裳階が後に造営された理由は、創建からしばらく経った後、屋根が垂れ下がってきたからです。
屋根を支えるために仕方なく四隅に柱を据えることになりますが、これではあまりにも見た目がブサイクなのでこの柱を隠すために裳階の四辺に連子窓(れんじまど)付きの板壁が据えられたと考えられています。
エンタシスの柱
金堂の柱は回廊の柱と同じ、途中が膨らんだ形のエンタシスの柱です。
法隆寺では回廊や中門と、そして付近に位置する法隆寺センターの内部などでエンタシスの柱を見ることができます。
エンタシスの柱に関しては、以下↓の当サイトの別ページでもご紹介しておりますので、そちらをご覧下さい。
「飛鳥様式」
飛鳥様式の建物は法隆寺の伽藍にある建造物の大きな特徴です。法隆寺以外では、法起寺、法輪寺にしか見られない建築様式です。
特徴的な部分を以下に挙げます。
どれも珍しいものなので、ぜひ現地にて探してみてください。
「雲斗」「雲肘木」
雲斗雲肘木は「くもとひじき」や「くもます くもひじき」と読み、これは軒の重さを支えるためにある木組み「斗(ます)」や「肘木(ひじき)」になります。
法隆寺金堂の斗と肘木にのみ、槍鉋(やりがんな)という道具を用いて当時の職人が渦模様を彫っています。
「雲」と呼んでいますが、もともと雲を表したものなのかどうかは不明です。
このような「雲」の形状の肘木や斗は飛鳥時代に造営された建造物の大きな特徴です。
なお、法隆寺の組物と呼べるものは、金堂、五重塔、中門だけに見られます。
高欄の卍くずし
上層と下層の間に見える、ベランダの柵のような部分を高欄(こうらん)や欄干(らんかん)といいます。
この高欄には少しズラした「卍」を崩したような形がかたどられています。これが「卍くずし」の名称の由来です。
まさにそこそこ歴史と名前のある駅前付近の中華飯店に行った時にラーメンを注文したら、出てきた器の汁をススりこむ部分の模様にも見えます。
⬆️コレ!
‥‥‥こホンっ!
法隆寺金堂の上層部には出入り口も高欄もありますが、既に述べたように豪壮感溢れる見た目を演出するための実用的なものではないことが明らかにされています。
つまり、金堂の2階に実際に上がってみても、建物の壁と高欄の間には人が歩き回れる十分なスペースがないということです。
高欄の人字形割束
その下には漢字の「人」のような、きれいな曲線の短い柱があり、「人字形割束(ひとじがたわりづか)」と呼ばれています。
この曲線がポイントで、593年(推古天皇元年)建立の四天王寺(大阪市天王寺区四天王寺)にも卍くずしと人字形割束の高欄がありますが、そちらの「人」の部分は直線になっています。
上層部の屋根を支える支柱に見える龍の彫刻
上層部には屋根を支えるための支柱が四隅に渡って「昇り龍」2本と「降り龍」2本の合計4本据えられ、それぞれの支柱に龍の彫刻が施されています。
⬆️よく見ると昇龍と降龍であることが分かる
この龍の彫刻はの江戸期元禄の修理の際に据えられたものであり、おそらく屋根の垂れ下がりを防ぐためのツっかえ棒のような役割を担っていると拝察されています。
龍の彫刻が据えられた理由
ただの柱を据えたのでは、あたかも屋根を支えるために木の棒を入れただけの不恰好になってしまうので、法隆寺の本堂である「金堂」としての存在感を誇示するために、あえて龍の彫刻をあしらえたのだとも考えられています。
よく見ると・・下層部にも彫刻がある!!
上述、龍の彫刻が施された支柱の下にある下層部の四隅にも、同様に屋根を支えるために据えられたであろう木造の彫刻がハメ込まれています。
これらの彫刻の正体は「獅子」と「象」です。
距離が離れているので視認しにくいのですが、金堂に行かれたら、ぜひ、双眼鏡などでご覧になってみてください。⬆️獅子
⬆️バクにも見えるがこれは象。狩野永徳が日光東照宮の上神庫に描いた象にソックリ。
二重基壇
ちょっと金堂が建っている足元をご覧ください。
金堂もそうですが、五重塔や中門、夢殿なども共通している特徴ですが、土台が2段になっています。
この土台のことを「基壇(きだん/土台部分)」と呼称し、通称「二重基壇」と呼ばれるものです。
このような2段の基壇は法隆寺のみに見られる特徴であり、飛鳥時代に造営された建造物を示す大きな特徴でもあります。
法隆寺の建造物群は神宮(伊勢)に見られる「神明造り」のような日本独自の木造建築ではなく、中国文化を踏襲して造営された背景があります。
瓦屋根は重量があるので、そのまま地面の上に建ててしまうと年数を経ればあっという間に傾いてしまいます。
それを防ぐために石造りの分厚い石板を地面の上に敷く必要がでてきます。
法隆寺境内の建造物群を見渡せば、それとなく基壇が据えられているのが確認できるハズです。
このような石造りの基壇を据える様式は中国の建築様式の大きな特徴です。
法隆寺以外で二重基壇が見られる場所
ちなみに同様の歴史をもつ、薬師寺(奈良)や四天王寺(大阪)など、奈良時代までに建てられた他の寺院のお堂の基壇は1段になっています。
平安時代以降になると「和様」の建築物には縁側がある建物が増え、基壇がなくなり、その代わり床下に「亀腹(かめばら)」と呼ばれる基壇の名残のような部分ができます。
「入母屋造と寄棟造」
建物の壁の長方形が広い面を正面として、前後に屋根を傾斜させたものを切妻造、四方に傾斜させたものを「寄棟造」といいます。
↓寄棟造
画像引用先:https://ja.wikipedia.org/
入母屋造の屋根とは、屋根の上の部分は切妻で、下の部分は寄棟の屋根です。
本瓦葺
金堂の上層の屋根を、側面から見てみてください。
本瓦とは、丸瓦と平瓦を組み合わせるもので、檜皮葺や茅葺が主流だった日本に600年代(飛鳥時代)に伝えられた屋根の造り方です。
梅雨や同時期に頻繁に台風が来る日本には、雨漏りしにくいので適した屋根ですが重いのが難点でしたが、仏教の伝来とともに寺院が建立されるようになると急激に瓦葺きが広まっていきます。
なお、瓦屋根が日本ではじめて使用されたのはいつ頃で場所はドコで、どのような建造物に使用されたのか、想像がつきますか?
実は日本で最初に瓦屋根が使用されたのは飛鳥寺(奈良県高市郡明日香村飛鳥)だと云われています。
金堂の内部の仏像配置図
金堂の内部は裳階部分が廊下部分となり、一応の外陣を形成しています。
さらにその内側に柱が10本立てられて本来の外陣があり、その内側には内陣があります。この内陣に須弥壇が置かれており、その上に下掲図のような仏像が数体、安置されています。
金堂の内部の仏像配置図
金堂内陣(内部)の見どころ
「仏像」と「間」
内陣にはまず、須弥壇が中央に置かれ、さらに須弥壇の天井部分には、3つの天蓋(てんがい)が据えられ、一応の区切りがされています。
この区切りは壁面こそありませんが、一応の「間(部屋)」とも捉えることができ、それぞれ以下のような仏像が安置されています。
- 中央の間:釈迦三尊像(釈迦如来坐像・薬王菩薩立像・薬上菩薩立像)
- 東の間:薬師如来坐像・持国天・多聞天
- 西の間:阿弥陀如来坐像・増長天・広目天
- 東と中央の間違:毘沙門天
- 西と中央の間:吉祥天
この他、以前は「百済観音立像(現在は大宝蔵院観音堂に安置/国宝)」と「玉虫厨子(同じく大宝蔵院に安置/国宝)」が釈迦三尊像の後方に安置されていたようです。
この仏像の配置は創建当初からの踏襲されるものとして伝えられてきましたが、なんと!一説では、東に阿弥陀がきて中央に薬師、西に釈迦三尊が配置されていた可能性も示唆されています。
中央に薬師が配された理由は、法隆寺の創建理由となる用明天皇の病気平癒を祈願したものに由来するからです。
仏像の配置が現在のようになった理由としては、平安後期から鎌倉時代にかけて聖徳太子信仰が盛んになり、太子を祀る東院が伽藍の中心になりかけたためです。
ちなみに聖徳太子信仰とは、聖徳太子を”釈迦”の生まれ変わりとして拝した信仰のことです。
このための対抗処置として現在の配置のように薬師を東へ下げ、中央に釈迦を配し、西に阿弥陀を配したと考えられています。
現代でもアイドルユニットAKB48を代表例として、グループ内のセンター(中央=人気No.1)の位置をめぐって激しい争奪戦が繰り広げられていますが、この時代でも激しいセンター争いが繰り広げられていたことが想像につきます。今年は誰
・・こホンっ!
天蓋(てんがい)【重要文化財】
また、上述したように金堂には2階部分がないので屋根までの高さと空間がありますが、この空間を利用して「天蓋(てんがい/天井から吊り下げる装飾)」が東、西、中央の各間の仏像の頭上に合計で3つ吊られています。
天蓋とは仏教の聖地であるインドにおいては王や貴族の従者が主人にかける日傘の役割を担うものであり、日本においては仏像の頭上に天井から吊るされた傘のような荘厳(しょうごん)のことです。
インドの俗説では帝釈天が釈迦のために日傘を常に差しかけたというものがあり、いつしか仏像に取り入れられるようになってからは仏の「徳」が形になって現れたものとして信仰されるようになっていきます。
したがって天蓋が豪華であればあるほど、その仏の徳の高さを示すバラメーターにもなっています。
金堂の天蓋は3つとも重要文化財の指定を受けており、3つのうち「中の間」と「西の間」は飛鳥時代の制作であり、「東の間」は鎌倉時代(1233年/天福元年)に制作されたものです。
天蓋の大きさ
- 中の間の天蓋:幅275㎝/奥行246㎝(白鳳時代)
- 西の間の天蓋:幅242.5㎝/奥行217㎝(白鳳時代)
- 東の間の天蓋:幅240.5㎝/奥行219㎝(1233年/鎌倉時代)
材質はいずれもヒノキ材を用いて制作されています。
このように中央部分に屋根までの空間がとられた理由は、現在でも謎とされ、一説では廟堂(びょうどう=墓)として造営された説も示唆されています。
外陣(内部)の見どころ
金堂壁画
「外陣(外陣)」とは内陣(ないじん)という間(部屋)の外側にある間のことをいいます。
画像引用先:朝日新聞
法隆寺金堂の外陣には火災で焼失したことで知られる有名な壁画が飾られています。
頭貫の上の欄間(らんま)の部分には小壁が据えられ、この小壁にこそ、ムフフぅ~ん♥な天女が舞う壁画・「飛天画」が20面描かれています。
ただし、各壁に描かれている天女は、実に妖艶で実に激しく熟した美しい2人の天女が舞う姿が描かれており、これらの壁画はすべて同じ構図で描かれています。つまり、20面すべて同じ壁画となります。
この他、長押の上にも同様に「阿弥陀浄土」や「極楽浄土」が描かれた壁画が18面描かれていましたが、1949年(昭和24年)1月26日未明の失火によってすべて焼失しています。
ただ、現在に至ってはこれら焼損した壁画は復原されており、白鳳期に描かれたありのままの姿の壁画を目に焼き付けることができます。
金堂の仏像一覧
釈迦三尊像
釈迦三尊像は法隆寺の御本尊です。そもそもこの金堂自体が法隆寺の本堂であることから内部に安置される御本尊も法隆寺の御本尊ということになります。
光背の裏側には仏師が彫ったとされる銘文が残されおり、この銘文によって本像が623年(推古31年)に、仏師「止利(とり)」が造像したことが明らかにされています。
左右対称の衣文および裳懸座の衣文が飛鳥時代の特徴をよく表しています。
造立年
- 西暦601年頃から650年/7世紀前半(飛鳥時代)
- 推定:623年(推古31年)
像高
- 中尊(釈迦如来像):87.5cm
- 向かって右脇侍:92.3cm
- 向かって左脇侍:93.9cm
- 台座の最下部から光背の最上部までの高さ:約382cm
造り:一木造り(台座・光背)
材質:銅、鍍金・台座(ヒノキ・クスノキ)
国宝指定年月日:1951年(昭和26年)6月9日
作者:司馬鞍首止利仏師
薬師如来坐像【国宝】
造立年
- 西暦607年(推古15年/飛鳥時代)
像高
- 63.8cm
造り:鍍金
材質:銅、台座(ヒノキ・クスノキ)
国宝指定年月日:1951年(昭和26年)6月9日
発願者:用明天皇
造立指揮:聖徳太子、推古天皇
法隆寺の寺伝によれば用明天皇が病床に伏した際、推古天皇と聖徳太子を呼びよせて病気の平癒を祈願して造立させたのが、本像だと云われております。
本像にも釈迦三尊像と同じく光背の裏側に銘文が残されており、この銘文から法隆寺の創建年が割り出されることになります。
阿弥陀三尊像【国宝】
造立年
- 西暦1232年(貞永元年/鎌倉時代)
像高
- 64.6cm
造り:鍍金
材質:銅、台座(ヒノキ・クスノキ)
国宝指定年月日:1951年(昭和26年)6月9日
作者:康勝(こうしょう/法橋)
鎌倉時代の記録によれば聖徳太子の母ジャである穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后のために造立された仏像になるようです。
中座の阿弥陀如来坐像の光背には銘文が残されており、これによれば左右の脇侍に観音菩薩立像と勢至菩薩立像が附属していたことが明らかにされてにいます。
ただし、勢至菩薩は時代を経る過程において行方が分からなくなっていたのですが、最近になってギメ東洋美術館(フランス・パリ)で所蔵されているのが判明したとのことです。
しかし残念ながら現在、金堂に安置される勢至菩薩立像はパリにあるオリジナルを元にして忠実に造立されたものになります。
四天王立像
金堂の須弥壇の四方には四天王立像が御本尊である釈迦如来坐像を守護するように安置されています。
像高
※須弥壇正面右側より※
- 持国天:133.3㎝(東の方角の守護神)
- 増長天:134.3㎝(南の方角の守護神)
- 広目天:133.3㎝(西の方角の守護神)
- 多聞天:134.2㎝(北の方角の守護神)
造立年:650年頃/飛鳥時代(日本最古の四天王像)
材質:クスノキ材
造立方法:木彫り・彩色・切金
重文指定年月日:1897年(明治30年)12月28日
国宝指定年月日:1951年(昭和26年)6月9日
毘沙門天立像【国宝】
像高:123.2㎝
造立年:1078年(承歴2年/平安時代)
材質:木造
造立方法:木彫り・彩色
重文指定年月日:1897年(明治30年)12月28日
国宝指定年月日:1951年(昭和26年)6月9日
金堂では例年、1月8日〜14日に法要「吉祥悔過(きちじょうけか)」もしくは「修正会(しゅしょうえ)」営まれますが、両像はこの法要の御本尊になります。
法隆寺に伝わる金堂日記の内容によれば、「かつて大講堂にて吉祥悔過が行われていたが、他の寺に倣い、本堂である金堂で勤修することになり、このときに造立されたのが両像である」
などの一文が残されており、これにより本像が1078年に造立されたことが明らかにされています。
なお、大講堂で営まれていた頃は像ではなく、画像の毘沙門天と吉祥天であったとされ、金堂で行われるようになったのを機とし、造像されたようです。
関連記事:法隆寺(金堂)・毘沙門天立像(吉祥天像)
吉祥天立像【国宝】
像高:116.7㎝
造立年:1078年(承歴2年/平安時代)
材質:木造
造立方法:木彫り・彩色
重文指定年月日:1897年(明治30年)12月28日
国宝指定年月日:1951年(昭和26年)6月9日
関連記事:法隆寺(金堂)・毘沙門天立像(吉祥天像)
火事で黒コゲになった金堂の壁画
法隆寺金堂の壁画は600年代末の作品とされる世界屈指の価値を持つ仏教壁画でした。
信仰対象としてはもちろん、芸術品として、研究材料としても貴重かつ著名で、明治時代以降、模写も行われていました。
しかし1949年(昭和24年)1月26日、昭和の大修理の真っただ中、金堂で火災が発生し、模写をしていた壁画の大部分が真っ黒になってしまいました。
ただし、上述しましたが内陣の壁画だけは取り外されて別の場所で保管されていたために奇跡的に火災の難を逃れています。
火元については画家の電気座布団や、蛍光灯の電熱器の可能性が指摘されています。
当時は修理のため金堂の天井は取り外されており、仏像も移動してあったので無事でした。
焦げてしまった壁画は、現在、法隆寺大宝蔵院の隣にある所蔵庫に保存されており、毎年夏の「法隆寺夏季大学」の受講者には特別に公開されています。
法隆寺・金堂壁画の焼損を機に、1950年(昭和25年)に文化財保護法が制定され、1955年(昭和30年)には1月26日が「文化財防火デー」と定められています。
そして法隆寺では毎年この日に、二度とこのような悲惨な事故は起こしてはならように防火訓練が行われているのです。
金堂の再建年と再建の中心人物
この金堂は670年(天智天皇9年)の火災で焼失していますが、672年(天武天皇元年)以降に再び再建されたと考えられています。
再建の中心的な人物として、聖徳太子の嫁ハンの膳氏があげられます。
この当時の膳氏の当主は膳 摩漏(かしわで の まろ)という人物であり、まさにこの人物こそが金堂および法隆寺再建の中心的人物であった可能性が示唆されています。
この理由としては膳氏の氏寺であった法隆寺近くの法輪寺(ほうりんじ)の伽藍の様相が法隆寺と類似しているためです。
例えば、伽藍の配置や心礎(心柱の下に置く礎石)を地下に埋め込む様式、初重に塑像(そぞう)を安置する様式、雲形の組物など、まるで現在の法隆寺が法輪寺の規模を広げてそのまま移築してきたかのようにみえるからです。
金堂の天井板の落書きから見る再建年
1954年(昭和20年)に、この金堂と五重塔の解体工事が執り行われました。
この工事では思わぬ発見があり、天井板の裏側に人の姿の落書きや文字の落書きが発見されています。
さっそく、この落書きがいつ頃書かれたものなのか分析にかけられたところ、なんとぉぅぉ!!オぅぃェ~..672年から690年頃に書かれた落書きであることが判明しています。
落書きの分析は落書きとして描かれた人の着用していた服装が主材料となって分析結果が出されています。
この事実から法隆寺が670年に全焼した説が浮上し、現在では定説になっています。
ちなみに法隆寺が670年に焼失した事実は、著名な古文書である日本書紀にも記されているのですが、「法隆寺創建」という一大スクープについての記述がなく、現在までの謎とされています。
法隆寺・金堂「修正会」
「修正会(しゅしょうえ)」とは、1月(正月)に行われる仏教行事で、僧侶たちが人々に代わって前年の行いを反省し、仏に過ちを懺悔(ざんげ/さんげ)することで許しを請い、五穀豊穣や国家安泰を祈願する法要です。
法隆寺金堂の修正会は奈良時代の768年から続く長い歴史を持った年中行事で、毎年1月8日から14日まで行われます。
吉祥天と毘沙門天を御本尊に据え、両仏に対して懺悔する法要で、「吉祥悔過(きちじょうけか)」とも呼ばれます。
当初は大講堂にて、吉祥天・毘沙門天の絵を前にして行われていましたが、1078年には金堂に安置されている吉祥天像・毘沙門天像が造られ、修正会も金堂で行われるようになっています。
修正会に参加することは法隆寺の僧侶にとって大変名誉なこととされ、法要を行う10名の僧は「金堂十僧(こんどうじっそう)」と呼ばれます。
修正会のお勤めは「六時作法」と呼称し、1日6回行われていましたが、現在は6つのお勤めが朝・昼・晩の3回に集約されています。
このうち拝観時間内であるお昼の法要は、一般の参拝者も見学できます。
午前11時頃、西院伽藍の大講堂から始まり、その後金堂に移動します。
12日から3日間は、このお昼の法要に加えて夜の法要が、事前申し込みをした人を対象に公開されています。
お勤めの中で僧侶たちは、節をつけてお経を唱えたり、杖を持ち、ホラ貝などを鳴らしながら堂内を回ったりします。
終わりに・・
法隆寺iセンターにある金堂の柱の模型
「シンボルオブジェ」とは法隆寺・南大門から出て徒歩約5分くらいの場所にある斑鳩の里の観光案内施設である「法隆寺iセンター」の館内で展示されているものです。
どうしてここで「シンボルオブジェ」の話を持ち出したのかの言いますと、、法隆寺の近藤君の、あイヤイヤイヤ違う違う。「金堂」!!・・の、こホんっ!実物大の入側柱(いりがわばしら)が忠実に再現されたレプリカが展示されているからです。
「入側柱」とは、外の柱よりも1つ内側の柱になります。
このシンボルオブジェは、素材にもコダわりがあり、樹齢約300年前の国内産の檜材(ひのき)を用いて制作されています。
ただし、実際に金堂に使用されているヒノキは生駒の山林で伐採されたヒノキが使用されています。
そして大きな特徴としては、柱全体の形状にあります。
天井部分にあたる組物のあたりがもっとも柱の直径が少なく約48センチメートルになります。
次いで、柱の中央部分の直径は約63センチメートルあり、地面に接地している部分の直径幅は約59センチメートルになります。
これらの3つ長さを比較して柱を遠目から見た時に、この柱の形状がキャなり(訳=かなり)特徴的であることに気づきませんか?
つまり、柱の中央部分だけが妙に膨れ上がっていることに気づきます。
これは「胴張り」と呼称される古の建築技法で、つまり、これこそが法隆寺を語る上で必ず出てくる「エンタシス」のことです。
エンタシスは柱の景観が美しく見え、古代の寺院に対する美意識の表れとも云われています。
ただしエンタシスの制作には「鐁(やりがんな)」と呼称される道具が用いられ、多大な時間と労力を必要とすることから奈良時代あたりを境に序々に歴史上から姿を消していくことになります。
ちなみにエンタシスを制作している場面も蝋人形を用いて再現されています。
金堂を拝観されてからでも結構ですので、是非!参拝の帰りには法隆寺iセンターに立ち寄ってみてください。
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