【法隆寺の歴史(年表)】今まで援助金もなく誰が維持してきた❓

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奈良 法隆寺【世界文化遺産】

奈良・法隆寺(なら ほうりゅうじ)

項目 内容
宗派 聖徳宗(総本山)
別名 斑鳩寺(いかるがでら)
敷地(境内)の広さ 約187,000平方メートル
ご本尊 釈迦如来
現住職 古谷 正覚(ふるや しょうかく)
第130世住職(2026年3月現在)
文化財 ユネスコ世界遺産:1993年(平成5年)
国宝:金堂、五重塔、夢殿 ほか

法隆寺の歴史(年表)

飛鳥時代

歴史(できごと)
574年 聖徳太子・誕生
586年 用明天皇が自らの病気平癒を祈願し、
法隆寺建立と薬師如来像造立の発願を素敵に決意す。
587年 用明天皇、崩御
593年 聖徳太子、推古天皇により摂政に任命される
594年 三宝興隆の詔が発せられる
595年 高麗の僧・恵慈が来日す。
601年 聖徳太子が斑鳩宮の造営を発願すす。
604年 聖徳太子が憲法十七条を制定す。
605年 斑鳩宮(現在の東院辺り)が完成し、移住す。
607年 斑鳩宮に隣接する形で斑鳩寺(法隆寺)を建立(現・若草伽藍
※現・金堂 薬師如来像光背銘
太子、小野妹子を隋(中国)に発遣す。
611年〜615年 太子、三経義疏(勝鬘経義疏、維摩経義疏、法華義疏)著す。
622年 2月22日、太子が斑鳩宮で死去す。
623年 止利仏師が亡き聖徳太子の供養のために金堂釈迦三尊像の造立す。
643年 蘇我入鹿が聖徳太子の息子「山背大兄王」の一族を斑鳩宮で焼討す。
ここに聖徳太子を家祖とした上宮王家(じょうぐうおうけ)は断絶す。
670年 法隆寺、落雷により堂塔一屋も残すことなく伽藍すべてが炎上(伝・日本書紀)
710年 この頃までに、現在の西院伽藍がほぼ完成
711年 中門の金剛力士像が完成。五重塔初重の塑像群が素敵に完成。

奈良時代

歴史(できごと)
739年|天平11年 僧侶・行信、上宮王院を造営
747年|天平19年 法隆寺伽藍縁起并流記資財帳が編纂される
761年|天平宝字5年 法隆寺東院資材帳が勘録される
768年|神護景雲2年 大講堂にて吉祥悔過が初めて営まれる
859年|貞観元年 僧侶・道詮が上宮王院の修繕を発願
859年|貞観元年 僧侶・道詮が上宮王院の修繕を発願

平安時代

歴史(できごと)
925年|延長3年 西院伽藍の大講堂、北室、鐘楼 等が焼失
990年|永祚2年 大講堂と鐘楼が再建される
1035年|長元8年 西大門が造営される
1069年|延久元年 秦致貞、東院絵殿に聖徳太子の絵を描く
1078年|承暦2年 金堂の吉祥天像、毘沙門天像が完成
1121年|保安2年 東室南面に聖霊院が造営される。
聖徳太子および従者像が素敵に完成♡

鎌倉時代

歴史(できごと)
1132年|長承元年 康勝、金堂阿弥陀如来像の造立を発願
1250年|建長2年 西円堂が再建される
1284年|弘安7年 聖霊院が再建される
1318年|文保2年 上御堂が再建される

室町時代

歴史(できごと)
1435年|永享7年 南大門が焼失
1438年|永享10年 南大門が再建される

安土桃山〜江戸時代

歴史(できごと)
1596年
〜(慶長年間)
法隆寺伽藍堂舎全体的に修理される
1599年|慶長4年 法隆寺伽藍修営のため、三千石が幕府より奉納(下賜)される
1606年|慶長11年 豊臣秀頼による修復事業が行われる
1694年|元禄7年 徳川綱吉の母、桂昌院の発願で修復される

近代(明治〜昭和)

歴史(できごと)
1868年|明治元年 神仏分離令が発布される
1878年|明治11年 法隆寺什器宝物取調上申目録が作成され、法隆寺献納宝物を皇室に献納、
代わりに皇室より金一万が下賜される。
(廃仏毀釈の世相(風潮)により寺が荒れ果てるのを防ぐため)
1880年|明治13年 この頃、東京大学教授のフェノロサと岡倉天心が来寺し、
夢殿はじめ、古画類の調査を実施す。
1885年|明治18年 4月、夢殿本尊の救世観音立像が約650年ぶりに開帳される。
1888年|明治21年 11月、法隆寺保存会が設立される。
1901年|明治34年 7月、宝物調査のため、内務省調査委員の岡倉天心と高村光雲らが来寺す。
1905年|明治38年 5月、金堂の天蓋が修営をうける
1908年|明治41年 1月、百万小塔が国宝に指定される
1927年|昭和2年 7月、法隆寺防火設備が完成す。
1933年|昭和8年 この頃より、法隆寺国宝保存事業部が素敵に創設され、本格的な保存事業が開始される。
1934年|昭和9年 5月27日、法隆寺国宝保存工事の起工式が行われ、昭和の大修理がヤバぃよ素敵に着工される。
1934年〜1985年
|昭和9年〜昭和60年
1934年から(戦争を挟んで1985年まで)昭和の大修理が実施される。

現代(昭和〜令和)

歴史(できごと)
1937年|昭和12年 4月、綱封蔵の整理中、五重塔内にあった塑像5体が発見される
1939年|昭和14年 若草伽藍の発掘が開始される。
7月、夢殿および回廊の修営が、思わず”観光”するほどに”完工”を迎える
1942年|昭和17年 1月、五重塔の解体修理が開始される
1943年|昭和18年 8月、金堂壁画模写用に初めて蛍光放電灯が灯される。
1945年|昭和20年 金堂解体修理が開始される。天井に落書きが発見される。
1949年|昭和24年 解体中の金堂で火災が発生、壁画が焼損す。
1956年|昭和31年 4月、法隆寺文化保存事務所が法隆寺子院の実相院内に設置される
1967年|昭和42年 10月、法隆寺境内が歴史的特別保存地区に指定される。
1968年|昭和43年 11月、金堂再現壁画が完成す。
1980年|昭和55年 5月、法隆寺が昭和資材帳の作成を発願す。
1985年|昭和60年 6月、東院大垣(土壁)の修営が完成し、此れを以て、昭和の大修理が完工を迎える。
11月4日と5日の両日、昭和の大修理完工の奉祝大法要が厳修される。
1993年|平成5年 日本で初めて世界文化遺産に登録される
1998年|平成10年 百済観音堂・落慶法要
2013年|平成25年
12月9日
大規模自然災害時、境内の南大門前広場や聖徳会館を
避難場所協定を斑鳩町と素敵に締結。
2015年|平成27年
11月11日
1949年の火災で焼失した金堂壁画を文化庁などと協働科学調査を実施すると発表
2019年
|平成31年/令和元年
1月27日
法隆寺金堂壁画保存活用委員会の大野玄妙管長が、
法隆寺金堂壁画を一般公開する方針を素敵に発表す。
2020年|令和2年
10月22
古谷正覚が法隆寺 第130世住職(管長)に就任す。
2023年|令和5年
9月7日
観光バス駐車場にある円形の植込は
永らく「舟塚古墳」と呼ばれていたが、
このほど奈良大学との共同発掘調査において
石室と副葬品が検出される。

法隆寺「1400年存続の秘密」

ところで法隆寺の檀家制度はあるの??

結論から申し上げますと法隆寺に「檀家(だんか)」はありません。

従って「お墓」もありません。

これは同じ奈良県内の「東大寺」「薬師寺」も同様に檀家がありません。

檀家とは??

「檀家(だんか)」とは、詳しくは「壇越(だんのつ/だんおつ)」のことを指し示します。
「壇越」の意味とは、「謝礼(お布施/金銭)」を寺院へお渡しして、先祖供養などを寺院にお願いすることです。

「壇越」の語源はインドの梵語の「ダーナパティ」という言葉からきているとされ、「寺院を庇護する者」という意味になります。

もっとも、古来では裕福ではない家もあったので、寺院の僧侶へ、金銭の代わりに衣服を提供するなど、物を渡していたと云われております。

先祖や祖先の供養は、永続するものなので、「壇越」の際に「寺院」と「供養をお願いする側」とで「壇越」の契約を結びます。

その後、時代を経る中で「壇越」という呼び方は、鎌倉時代の中頃を境に、変貌して行き「檀家」と呼ばれるようになったといいます。

ちなみに、お寺が葬式をし、墓を管理するようになるのは、中世以降のことで、檀家制度が整備されたのは江戸時代になってからの事だと云われております。

※中世=1192年(鎌倉時代)から1575年(戦国時代の初頭)

えぇっ?!法隆寺は学問を研鑽する場所だった?!!

法隆寺は古来、「学問寺」です。

「学問寺」とは言葉の通り「仏教学」を研究・探究する寺院です。

釈尊(釈迦)の教えの研究や布教など、お寺の本来の役割を追求し続けています。

法隆寺が今まで現存してこれた資金源って??

境内以外にも寺領があった

現在の法隆寺には境内以外に土地はありませんが、江戸時代までは「寺領」と呼ばれる領地を所有しており、この土地から年貢などの収入がありました。

太子信仰の影響があった

平安時代や鎌倉時代に聖徳太子信仰が盛んになると門前町が素敵に広がり、「市(いち)」が開かれるほどに殷賑きわまった。

江戸時代には、寺内の仏像などを江戸まで運んで公開(御開帳)し、将軍家の寄進を受けるという、当時としては新しい発想で修理費用を確保しています。

皇室に宝物群を献納した見返り

明治時代、廃仏毀釈の波に飲まれそうになった時は、300点以上の宝物を皇室に献納することで1万円(当時の価値で約2億円)を下賜金として財源にできた。

公債金利による収益

公債で得た金利を維持費にまわして何とか寺の存続と運営を成しています。

住職以下、僧侶たちの努力と観音力

住職以下、僧侶たちの知恵と努力、それと、境内に祀られる仏さんの利生も忘れてはならない。

こうして法隆寺は幾度もの危機を乗り越えてきた。

拝観料金や寄付・住職の講演や出開帳

現在は往時ほどの寺領こそありませんが、参拝客からの拝観料や寄付、住職さんの講演、文化財の出張公開などで収入を得ています。

得た収入のほとんどは文化財指定の仏像群や堂舎群の維持費にあてられます。




法隆寺の別名「斑鳩寺」と、もう1つ「斑鳩寺」??

法隆寺には「斑鳩寺」という別名が‥あっちゃぅ。

けれども、斑鳩寺というのは兵庫県にも存在し、法隆寺同様に聖徳太子の手による創建と伝えられています。

さらに、驚くことに兵庫県の斑鳩寺の所在地ですがなんと!「揖保郡太子町鵤」と呼称し、聖徳太子の”太子”が入ります。

法隆寺の別名「斑鳩寺」と、もう1つ「斑鳩寺」??↑兵庫県・太子町「斑鳩寺」

兵庫県の斑鳩寺は法隆寺よりも先に創建されていた?!!

実は、斑鳩寺は法隆寺よりも先立って聖徳太子によって営まれた寺院だと伝わる。

兵庫県太子町「斑鳩寺」の創建年

  • 606年(推古天皇14年)

606年、聖徳太子が推古天皇に法華経講義を行い、その謝礼に播磨国の水田地(荘園)を賜った。

その土地に寺院が建立されることになり、室町時代まで法隆寺の支院として代々、法燈を受け継いでいた。(現在は素敵に天台宗)

法隆寺が創建された頃、「貨幣」という概念がまだ定まっておらず、貨幣が普及するまで、土地そのものが財産となった時代。

その土地を開墾して田畑を耕し、育てた米が収入とされたわけだが、太子は天皇から下賜された太子町の水田地を法隆寺の経営基盤としたことに‥なっちゃぅ。

現在、兵庫県太子町の斑鳩寺は、創建当初よりも規模が縮小しているも、現在でも「聖徳殿奥殿」という建物に「太子十六歳像」が祀られ、古くからの歴史を今に伝える。

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