奈良・法輪寺の歴史(年表)や由来とは?

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奈良・法輪寺

創建年

  • 不明
  • 推定説1:622年(推古天皇30年)
  • 推定説2:670年(天智9年)
再建年

  • 1739年(元文4年/江戸時代中期)
  • 1903年(明治36年/明治時代初期)
  • 1960年(昭和35年)
  • 1975年(昭和50年)
山号

  • 妙見山
宗派

  • 聖徳宗
御本尊

  • 薬師如来
札所番号

  • 聖徳太子霊跡16番
  • 大和北部八十八ヶ所霊場 第53番
発願者

  • 推定説1:山背大兄王
  • 推定説2:百済開法師・圓明法師・下氷新物

奈良・法輪寺の読み方

仏像やお堂には難しい漢字の表記で読みにくい名前がありますが、法輪寺は「ほうりんじ」と読みます。

その他、法輪寺には別名があり「三井寺(みいでら)」や「御井寺(みいでら)」とも呼称するようです。

「三井寺」の名前の由来

法輪寺の住所地を見ていただければ分かりますが、「奈良県生駒郡斑鳩町三井1570」となっており、住所地の最後の町名に「三井」が入っています。

もうお分かりだとは思いますが、三井寺の「三井」とは住所地から由来が来ています。

「三井」の住所の由来とは、聖徳太子が法輪寺の付近周辺に「3つ井戸」を掘ったらしく、この井戸の数に因んで「三井」の名前が来ています。

ちなみに聖徳太子が掘った井戸は太子ゆかりの寺「大阪の四天王寺」の境内にもあります。その他、畿内においても聖徳太子ゆかりの井戸がいくつか存在します。

⬆️史跡「三井の井戸」

⬆️井戸をアップ

⬆️案内板

現在までの謎に包まれたまま!「法輪寺の創建年の秘密とは?」

実は、奈良・法輪寺の創建年に関しては以下のような2つの説が存在しています。

1.聖徳太子の病気の平癒を祈願して、太子の御子である「山背大兄王」が622年(推古天皇30年)に創建したとされる説。
2.670年(天智天皇9年)に「百済開法師」・「圓明法師」、「下氷新物」の「3人の人物」が創建したとされる説。

このうち、上の2番目の「3人の人物」に関しては存在が明らかにされておらず、一説では「下氷新物」と「山背大兄王」は同一の人物であると云われています。

このような理由から法輪寺の創建は「山背大兄王」と表記されることが多くあります。

創建以後、法輪寺の名前は有史上には見えず、再び歴史上に名前が現れるのが江戸時代になってからのことです。

飛鳥時代〜鎌倉時代

伝承される仏像群の年代を推察すれば、鎌倉時代までは興盛を極めたようです。

御三井寺資財帳という古書物の内容に依れば928年(延長6年)の境内敷地について記されており、東は法起寺堺、西は板垣の峰、南は鹿田池、北は氷室池の堤、に至るまでの寺領を誇っていたとされています。

しかし、極めて早い時期から興福寺一乗院の末寺に属したため、付近の法起寺や中宮寺のように法隆寺の記録には残されていません。

聖徳太子伝私記の内容に依れば金堂、塔、講堂、食堂などの建物が伽藍に建てられていたことが記載されており、境内からはこの時期に作られたとみられる銅製の鏡などの品々が見つかっています。

安土桃山時代

1587年(天正15年)正月には、太閤秀吉が当寺を自らの祈願寺と定め、金剛院の真賀に帰依しています。この他、門外に下馬石を建て、弟の秀長が使者として来訪したとの記述もみられます。

ちなみにこの下馬石は現在も法輪寺の拝観出入口となる南門の表側に残されています。

江戸時代

1645年(正保2年/江戸時代前期)に関西地方を襲った台風の被害によって金堂、講堂が倒壊、三重塔は最上層が損壊し、無残にも二重だけの姿になるなど、伽藍のほとんどが壊滅しています。

平政隆が著した「愚子見記」によれば、二重になった三重塔のみを残し、境内は坊主状態(更地)になったとのことで大風の威力がいかに凄まじかったのが理解できます。誰かに恨まれた?

その後「1716年から1735年(江戸時代中期)」の享保年間に当寺の住僧である「大円房寳祐(ほうゆう)」と「大坂上人町松左衛門」の勧進活動によってようやく再建計画が成り、1760年(宝暦10年)に「三重塔」が完成、1761年(宝暦11年)に「金堂」・「南大門」の再建されています。

当寺に伝わる古文書「仏舎利縁起」の記述によれば、1760年の再建工事の最中の、1739年(元文4年)7月に塔心柱下から仏舎利をはじめとした品々が出土したことが明らかにされています。

法輪寺と妙見信仰

法輪寺の有名な信仰に「妙見菩薩信仰」がありますが、この信仰のあらわれとして1731年(享保16年)に妙見山にあった妙見堂を講堂裏に移築する形で造営し、以来、現今に至るまで当寺を代表する信仰になっています。

昭和時代

さらにその後の1903年(明治36年)に国宝に指定登録され、大規模な解体修理が行われますが、1941年(昭和16年)に公布された第二次世界大戦時の「金属類回収令」によって三重塔が避雷針を失っています。

しかし1944年(昭和19年)には、さらに大きな不運に見舞われることになります。

その不運とは、避雷針を失った三重塔に落雷があり火事に見舞われてしまい、国宝の三重塔が焼失に至ります。

その後の1975年(昭和50年)に日本全国から浄財を集めて再建が成り、三重塔だけではなく創建当初の伽藍の威容を取り戻し現在に至っています。

尚、現在に至っては「法輪寺」と呼称される寺院は日本全国にいくかありますが、奈良・法輪寺は「聖徳宗の寺院」となりますので他の法輪寺とは異なる寺院です。

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