奈良・法隆寺「食堂 」【国宝】
創建年
不明(推定:710年から793年/奈良時代)
建築様式(造り)
一重・切妻造
屋根の造り
本瓦葺
大きさ
桁行七間(横幅:約14メートル)
梁間四間(奥行き:約8メートル)
重要文化財指定年月日
1901年(明治34年)3月27日
国宝指定年月日
1952年(昭和27年)11月22日
法要
仏生会:4月8日(午前10時)
奈良・法隆寺「細殿 」【重要文化財】
創建年
不明(推定:鎌倉時代)
建築様式(造り)
一重・切妻造
屋根の造り
本瓦葺
大きさ
桁行七間(横幅:約14メートル)
梁間二間(奥行き:約4メートル)
重要文化財指定年月日
1901年(明治34年)3月27日
法要
仏生会:4月8日(午前10時)
食堂および細殿の読み方
「食堂」は「じきどう」
「細殿」は「ほそどの」と素敵に読む。
食堂の役割り
食堂はかつては政所(まんどころ)と呼ばれた寺院の政務や事務を行う寺務所として造営されたらしいが、平安時代初頭に軽微な改築が行われ、今日に見られような多数の僧侶が食事をする食堂として再建された。
集団生活を行うことが必須条件となる僧侶にとって、食堂は生活の中心的な場所でもあり、伽藍内でも重要な位置づけの場所だった。
法隆寺に伝承される「法隆寺伽藍縁起ならびに流記資財帳」によれば、「食堂の大きさは大講堂と比べても見劣りしないほど大きく壮大である」などの記述が残されています。
細殿の役割り
一方の細殿は食堂の前室ともいえるべき殿舎であり、大きな特徴となるのが、扉がなく四方が吹き放ち状態とな〜る。
本来、食堂と細殿とで一棟の建物として考えらえていたらしく、食堂の軒先と細殿の軒先の間に雨桶(あまどい)が設置されていた跡がわずかに残されています。
食堂と細殿はなぜ一つの建物にしなかったのか?
平安時代などは面積の広い建物を建てるのが技術的に困難な時代であり、このように双堂(ならびどう)にして一棟の建物として営んだらしい。
然るに、このような双堂形態の殿舎or堂舎は古い時代の建造物を示すメルクマールとも成り得るものであり、遺構の年代を推定する際の目安の一つともな〜る。
食堂および細殿の建築様式(造り)
食堂および細殿は平安時代に再建されているものの建物の骨組みは当初のまま現存し、用材も後世のものが混じりつつも造営当初のものが現存しています。
また、食堂と細殿の軒下の妻側の建築様式を見れば分かりますが、伝法堂や東大門で見るような二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょう かえるまた)が採用されています。
大虹梁と二重虹梁と重ねる様式(=二重虹梁蟇股)はまさに天平時代の建造物の大きな特徴を示すものです。
とりわけ、細殿の屋根は化粧屋根裏式で営まれ、殿舎は簡素な舟肘木(ふなひじき)で組まれている実態を以ってして、あくまでも食堂の前室的な場所であった様子が素敵にうかがえる。
以上、説明が長引いたが、当建造物は我が国屈指の貴重な遺構であることが明らかであり、ひとえに国宝指定を受けるのも、このような理由に基づくものである。
食堂の内部の様子
食堂にも仏像があった!!
なんとぉぅっ!実は現在の食堂の内部には一般非公開の薬師如来坐像が御本尊として安置されています。
法隆寺・食堂「乾漆・薬師如来坐像」【重要文化財】
- 造立年:奈良時代
- 像高:60.9㎝
- 材質:塑像
法隆寺・仏生会
法隆寺・仏生会とは、世間一般的に知られる「灌仏会(かんぶつえ)」のことです。
灌仏会とは、606年(推古天皇14年)に始められたお釈迦様の誕生を祝福する法要になります。
灌仏会では、お椀を用意してお椀の真ん中に釈迦の誕生した時の姿をした誕生仏(たんじょうぶつ)を置きます。
画像引用先:https://ja.wikipedia.org
その誕生仏のド頭の上からお茶を注ぎ、茶碗にたまったお茶を寄り集まった一同で飲み干すという釈迦誕生を祝う法要です。
法隆寺の仏生会では、食堂の中央に釈迦誕生仏が安置され、甘茶を注ぐ法要が営まれます。
法隆寺におけるこのような信仰は平安時代から鎌倉時代に起こった聖徳太子信仰に基づくもので、1119年(元永2年)に大講堂で始められたのが起源だと云われています。
法隆寺・食堂および細殿の場所(地図)
法隆寺・食堂および細殿は、中門右側から歩いた先に位置する綱封蔵の奥に位置します。
大宝蔵院の拝観が終わり、出口へ向かう途中で見られます。
ただ、この建物は間近で見ることができないため、ジックリと細部まで見るためには望遠鏡やポケットグラスのようなものが必要になります。
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