法隆寺(金堂)・薬師如来坐像【国宝】
造立年
不明
推定:645年(大化元年)から710年(和銅3年)※飛鳥時代(白鳳期)
像高
63.8cm
材質
銅・鍍金
国宝指定年月日
1951年(昭和26年)6月9日
作者
司馬鞍首止利仏師??
安置場所
法隆寺・金堂
薬師如来坐像の読み方
「薬師如来坐像」は「やくしにょらいざぞう」と読みます。
薬師如来坐像が造立された理由
実はこの薬師如来坐像の「光背(こうはい/仏様の後ろの輪っかの事ね。..ウフ♥ )」の裏側には以下のような銘文が刻まれていることが明らかにされています。
「用明天皇は自らの病気の平癒を祈願して薬師如来坐像の造立を発願した」
「しかし像の完成を見ることなく用明天皇は崩御された」
「その意志を継承し、はたまた同時に用明天皇への弔いの気持ちを込めて、聖徳太子と推古天皇が607年(推古天皇15年)に完成させた」
以上のことから聖徳太子と推古天皇が607年に完成させた仏像だということになります。
えぇっ?!金堂の本尊は実は「薬師如来坐像」だった?!
現在の法隆寺の本尊は623年に造立された「釈迦三尊像」とされています。
これは釈迦三尊像の光背の刻銘の方が信憑性が高く評価されているためです。
しかし、上述した薬師如来坐像の光背に見える「607年」の刻銘から、法隆寺・薬師如来が実は創建当初の法隆寺のご本尊だったのではないのか?
などとも考えられています。
もう1つの理由としては、単純に法隆寺が「用明天皇」の「病気平癒(びょうきへいゆ)」を願って造営が開始された寺院であるいうことを考えると、ご本尊は「薬師如来」という可能性が大いに考えられるからです。
薬師如来の光背に記された記述による「法隆寺創建年の疑問説」
現在までの学術的な見解では、薬師如来像に刻まれた「607年(推古天皇15年)」の刻銘が法隆寺創建年の根拠となっているのですが、刻銘は後世で刻まれた可能性も示唆されることから、決定的な根拠とも言い切れず、未だ「謎」になっています。
しかし、造立の様式は明らかに釈迦三尊像より、この薬師如来座像の方が新しい時代の様式であることから、現在までの時点では670年(天智9年)に法隆寺が焼失した際、この薬師如来座像も焼失し、670年(天智9年)以降に再造像されたとも考えられています。
つまり、以下のような2つの説が浮かび上がります。
- 薬師如来坐像の前身となる坐像が607年に造立され、光背に法隆寺創建年など「創建にまつわる由緒」が刻まれたが670年の火災で焼失し、後に再造立された際、前身の坐像の光背を踏襲し法隆寺の由緒を示した刻銘が刻まれた
- 前身の坐像など存在せず、670年(天智9年)に造立された
以上のことから、この薬師如来坐像が造立された確かな年代は不明であり、依然、謎のままとなっています。
また、法隆寺の創建年の根拠については、上述の薬師如来像の光背の刻銘以外にも「法隆寺伽藍縁起ならびに流記資財帳(るきしざいちょう)」という古文書にも「607年」の記載があり、現在では、これら2つの根拠が法隆寺創建年の証拠となっています。
ただし、607年当時の法隆寺の伽藍は現在とは若干、異なった位置に造営されていたことが明らかにされており、これについては境内の若草伽藍の発掘結果から実証されています。
若草伽藍の調査は1939年(昭和14年)に行われ、この結果、現在の法隆寺は創建後に1度全焼し、その後、伽藍の位置を若干、ズラして現在の位置に再建されたという説が「正史である」と実証されています。
「薬師如来像」と「本尊・釈迦如来坐像」の作風(特徴)の相違に残る疑問点
同じ法隆寺の金堂内の「薬師如来像」の脇に安置されている「御本尊・釈迦如来坐像」と比べてみてください。
どうですか?
肉付きなどのお顔立ちは異なりますね。
薬師如来像の方は少しふっくらしていて涼しげです。穏やかな微笑みをしたお顔はどちらかと言うと、もう少し後の時代の作風と見られています。
しかし、お顔立ちの違いを除いては・・ソックリだと思いませんか?
台座にかけられた衣の左右対称性や彫り方に関してもソックリです。
これらの事からこの薬師如来像は「釈迦如来坐像」を真似て後の時代で造られたのではないか?
などと考えられています。
つまり、作者も別の人物という事になります。
「薬師如来像」の頭をちょっと、よく見てください。
いかがですか?
スベスベとした剃髪をしていることが分かります。
しかし、以前は「螺髪(らほつ)」があったのかもしれません。
取れてしまったとすると、少しかわいそうです。
やはりアートネイチャー(ヅラ)ではなく、植える方向(挿し込む)で考えるのがベストと言えますね!
「法隆寺・薬師如来像」の安置場所
- 法隆寺・金堂
法隆寺・金堂についての詳細は以下の別ページにてご紹介しております。