奈良 法起寺「三重塔」【国宝】
創建年
- 684年~706年(慶雲3年/飛鳥時代)※寺伝では706年
再建年
- 1673年〜1681年(江戸時代)
- 1897年〜1898年(明治時代)
- 1972年〜1975年(昭和時代)
大きさ
- 横幅:三間(約6m)※初層部
- 奥行:三間(約6m)※初層部
高さ
- 約23.9m
逓減率
- 約0.5〜0.6
建築様式(造り)
- 三重・仏塔(供養塔)
- 方形造り
屋根造り
- 本瓦葺
重要文化財指定年月日
- 1897年(明治30年)12月28日
国宝指定年月日
- 1951年(昭和26年)6月9日
発願者
- 恵施
奈良・法起寺「三重塔」の歴史・由来
現在の法起寺境内にて創建当初の建造物で現存するものは、この三重塔のみです。
なんと!日本の三重塔としては、最古の建築を伝えるものです。
法起寺三重塔が建てられた年代は定かではありませんが、三重塔の相輪の露盤から発見された「刻銘」によれば、706年(慶雲3年)に塔の露盤を完成させた旨の刻銘が残されています。
ちなみに「露盤(ろばん)」とは相輪の下部の盤のことです。
ただし!この露盤が現存していれば問題はないのですが、露盤が現存していないから、さぁ大変。
しかし、1238年(暦仁1/鎌倉時代)に編纂された「聖徳太子伝古今目録抄」の中から露盤銘を模写したとされる内容が見つかり、一躍、注目を集めるのですが、あくまでも「文」であり、現物がなければ証拠とは言えず、信憑性に欠けます。
この結果、この内容についての真偽についての学術論が飛び交ったのは言うまでもありません。
そんな中、美術史家の会津八一が1931年(昭和6年)に提出した「法起寺塔露盤銘文考」という論文の中で『聖徳太子伝私記は、露盤銘をそのまま写しとった証拠となりうる書物』として発表したことから、近年にいたっては聖徳太子伝私記に記された銘文は、創建当初に刻まれた露盤銘を忠実に模写したものとして認知されはじめています。
ちなみに706年に完成したということはそれ以前に仏塔(三重塔)の造営が発願されていることになるのですが、露盤の刻銘には「恵施」の名前に加え、さらに「乙酉年(685年)」という文字も見えることから、これらの事実を集合させると685年に恵施(えせ)という僧侶が三重塔の造営を発願し、706年頃に完成を迎えたということになります。
21年もの歳月を費やした工事の末、ようやく完成した仏塔だということです。
法起寺三重塔露盤銘文の内容
聖徳太子伝私記の中の「三重塔露盤銘文」の内容として、主に以下の3点が述べられています。
- 聖徳太子が存命中に息子である山背大兄王子に岡本宮(現在の法起寺の前身)を寺院として改築せよと遺命した
- 638年(舒明10年)に福亮(僧侶)により弥勒像が造立され、金堂が創建された。
- 685年(天武14年)に恵施(僧侶)が堂塔を建立し、塔(三重塔)は706年(慶雲3年)に露盤を相輪に据えた。
室町時代
1558年〜1570年には戦火の類焼により、三重塔、本堂、僧舎1棟を残し他の御堂は無残にも灰燼に帰し、以後、江戸期に至るまで再建は行われず、衰退の一途をたどることになります。
江戸時代
江戸時代の1678年には三層目の面積が2間から→3間へと改造されています。実は法起寺の三重塔は法隆寺の三重塔と同じく、少し離れた位置で見れば分かるのですが、Aラインスカートのような形をしています。
また、塔の初層と三層の面積も法隆寺五重塔の初層・5層目とほぼ同サイズであることから法隆寺五重塔とのつながりが指摘されています。
法隆寺の五重塔の創建は605〜607年(推古天皇13年〜15年頃/飛鳥時代)頃であることから、ひょっとしたらこの法起寺三重塔は創建当初の法隆寺五重塔をモチーフとして造営された可能性もあり得るということです。
これが事実だとすれば大変貴重な遺構であり、材料にもなり得るということです。ウフ
明治時代
明治時代になると内務省より「特別保護建造物」として指定される旨の通知があります。特別保護建造物とは現在の「重要文化財」のことです。
昭和時代
1970年~1975年には解体修理が行われており、この修理の目的は失われた創建当初の三層目の復原でした。江戸期に2間から→3間へと改造された三層目を今度は3間から→2間へと復原する形の改造工事が実施されています。
この他、2層目と3層目の高欄(こうらん/=手スリ)も創建当初の飛鳥様式に復原される形で取り付けられています。
平成時代
そして1993年には晴れて日本初となる「ユネスコ世界遺産(世界文化遺産)」に「法隆寺地域の仏教建造物」の一角として堂々、登録指定を受けています。
奈良 法起寺・三重塔の歴史(年表)
上述したように、法起寺三重塔は江戸時代の1678年〜1784年(延宝年間)の延宝の修理で3層目の面積を1間分広げる形で3間にする改造が行われており、これを1975年の修理で元の2間に復元する工事が実施されています。
よって、現在見られる三重塔の姿は1975年に修理された後の姿ですが、建物自体は飛鳥時代から踏襲されるものであり、現今、世界最古の三重塔になります。
年 | 歴史 |
---|---|
706年(3月) | 三重塔の露盤(ろばん)が作られる。 |
1350年 | 金堂、講堂、僧房、廻廊が倒壊。奇跡的に三重塔だけ残る。 |
1558年 〜 1570年 |
戦火の類焼により、三重塔、本堂、僧舎1棟を残し他の御堂は無残にも灰燼に帰す。 |
1678年(3月28日) | 三重塔の修理が一段落し、上棟式が執り行われる。 |
1784年 (正月3日) |
三重塔の修理が完了す。供養法要の厳修を法隆寺へ依頼す。 |
1854年 | 地震が発生!三重塔、破損。倒壊を免れたのは奇跡。御本尊のご利益の賜物か。 |
1897年(1月) | 三重塔の修繕費11915円22銭が内務省より下賜される。 |
1897年(3月) | 三重塔の修理が開始される。 |
1897年(12月) | 三重塔、内務省告示第87号より「特別保護建造物」の指定を受ける。 |
1898年(9月) | 三重塔の修理が完了す。落成法要が営まれる。 |
1972年(1月) | 三重塔の修理が開始される。 |
1972年(3月) | 三重塔の心礎から舎利容器が発見される。 |
1975年 | 三重塔の修理が完了す。 |
1993年 | ユネスコ世界遺産に「法隆寺地域の仏教建造物」の一角として登録される。 |
法起寺・三重塔の建築様式(造り)・特徴
雲斗・雲肘木
飛鳥時代の建造物に見られる大きな特徴が「雲斗」「雲肘木」です。飛鳥時代には現今に見られるような貫(ぬき)の発想がなかったことから屋根を支える構造材として「肘木」や「斗」を多用しました。
飛鳥時代の肘木や斗には雲のような文様があしらわれ、いわゆる美術的観点からの豊かな装飾が用いられています。
ただし、実際に雲が表現されたのかは不明ですが、このような文様を出すために職人たちは「槍鉋(やりがんな)」と呼ばれる先の尖ったナイフのようなものを巧みに使用しています。
法隆寺内では、金堂や南大門にもこのような「雲斗」「雲肘木」が見られます。
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塔の形
法起寺三重塔を少し離れた位置から見れば分かるのですが、女性のAラインスカートのような形状をしていることが分かると思います。夕暮れに訪れればよく分かります。
これはすなわち初層から最上層に行くにつれ、面積が小さくなっていることになります。
実は重塔の形状は、時代を下れば下るほど垂直(90度)に近づいていきます。
これは時代の変遷により、建築技術の進歩であったり、構造材を加工する技術が向上したことから最上層の面積を小さくしなくても建てられるようになったことを意味します。
法起寺三重塔は初層が3間、二層目が2間、最上層が1間・・と、最上層に行くにつれ、面積が小さくなっているのが分かります。まさに「A」の形です。
初層と二層の柱間が方三間!三層の柱間が方二間という特殊な様式!
Aライン形状の詳細を紐解いていくと、日本における木造の仏塔は方三間(正側面に柱が4本並び、柱間の数が3つ)のものが多く散見されますが、法起寺の三重塔は初層と二層の柱間が方三間となっており、三層目の柱間は方二間になっています。
つまり、初層から三層目に行くにつれ塔の面積が狭くなっていることになります。
なお、高欄(こうらん/手すり)部分と、三層の方二間の柱間は、解体修理の時に復元されたものです。
【補足】垂直型の仏塔の例
では、垂直型の重塔もご紹介しておきましょう。
垂直型の重塔の代表例は江戸時代初期に建立された日光東照宮の五重塔です。
・栃木・日光東照宮五重塔(1818年/創建は1615年)
飛鳥時代 ⇒ やや昔(約1600年/江戸時代初期頃まで)
初層の屋根がもっとも大きく最上層(五層目)の屋根がもっとも小さい(緩やかなAライン)
やや昔(約1600年代) ⇒ 現代
初層の屋根も最上層の屋根も屋根の広さが同寸(同じ)
逓減率とは?
重塔の容姿を表現する時に「逓減率(ていげんりつ)」という言葉を聞くことがあります。
逓減率とは、初層(最下層)の面積(=屋根の広さ)に対しての最上層の面積の割合を意味します。
初層の面積に対して最上層(五層目)の面積が半分であれば逓減率は0.5になります。
これが1.0に近づくにつれて最上層と初層が等しくなっていき、Aラインではなくなります。
ちなみに近隣の法隆寺の五重塔は0.5です。
心礎が基壇上に据えられている
法隆寺の五重塔の心礎は地中にあり、地中の奥底に仏舎利容器が埋められているのですが、法起寺の三重塔は地中ではなく、地上に基壇を造り、その基壇の中に円形の穴ボコを開け、基壇の奥に仏舎利容器を収め、その上に心柱がくる様式で造られています。
これは法隆寺五重塔よりも後の時代の白鳳時代後期の建築方法であり、法隆寺五重塔よりも後の時代に造られたことの証明になり得るものです。
現今、土に埋もれていた分かりにくいのですが、土を掘り返すと二重基壇になっているとも云われます。
調査が行い理由としては、仏の御霊がお宿りした仏舎利が奉納されていることから、中々、掘り返すことができないのが現状です。
建築構造と組物
地垂木の一軒と繁垂木
各層の壁面には中備にまで尾垂木を掛け、垂木は二軒ではなく角垂木の一軒(地垂木)で組まれています。
雲斗に半月状のくり抜きがない
上記写真を見れば分かりますが、法隆寺の雲斗とは打って変わり、半月状のくり抜きがなく、簡略化されている様子がうかがえます。
柱材(胴張り)が細い
また、柱材が細く仕立てられており、時代の下りを感じさせる部分はあります。
頭貫・台輪が初層から上層まで据えれている
二層目の高欄は昭和の解体修理の際に取り付けられたものですが、その上に見える横材となる頭貫や台輪などは法隆寺五重塔の上層部の壁面には見られなかった様式です。
法起寺の三重塔はこのような頭貫や台輪が最上層までキッチリと据えられていることから法隆寺五重塔をモチーフとして、それよりも下った時代で造営されたものと位置付けることができます。ウフ
法起寺「三重塔」の高さはいくら?
法起寺三重塔の高さは23.9mと日本国内の三重塔の中では3番目に高い三重塔です。
清水寺以外の寺院の三重塔との高さの比較
薬師寺東塔(奈良): 高さ約34m(奈良時代)※日本でもっとも高い三重塔!
清水寺三重塔(京都):高さ約31m(平安時代)
法起寺三重塔(奈良):高さ約24m(飛鳥時代)
安楽寺八角三重塔(長野):高さ:18.75m(鎌倉時代)
興福寺三重塔(奈良): 高さ18.4m(鎌倉時代)
斑鳩三塔とうちの1塔として知られています。
この中でも残念ながら法輪寺三重塔は1944年(昭和19年)7月21日に落雷で焼失したため現在見られる姿は1975年(昭和50年)に再建された時のものです。このため国宝指定から除外されることになり【旧・国宝】とされています。
法起寺三重塔は平安時代以前に造られた三重塔としては薬師寺三重塔のような裳階付きを除いては日本最大の高さを誇り、おそらく飛鳥時代にはこの高さを支えるだけの技術力が乏しかったことから、単純に初層から上層にかけて細く造っていくことになったことがわかります。
少し離れた位置からこの塔を見ればわかりますが、Aライン型をしているのは安定化を計る目的があったからです。
法起寺・三重塔の内部は一般公開されて内部見学できるのか?
法起寺三重塔は残念ながら内部には入ることができません。
内部には心柱と仏壇(お厨子/ずし)が見えるのみです。この仏壇には位牌が祀られています。
その他には特に何もありません。
法起寺・三重塔の場所(地図)
法起寺三重塔は入口(拝観受付)の真正面に見えています。50歩ぐらいの距離です。
法起寺の境内はハッキリ言って思っていたよりも狭いです。拝観受付からすでに三重塔が正面間近に見れるほどです。
売店なども受付のみで特にありませんが、拝観入口の後方となる左脇に御本尊が安置される鉄筋コンクリート造りの近代建築の建物があります。
他は基本的に外観を見るのみです。
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