奈良 法隆寺【世界文化遺産】
宗派:聖徳宗(総本山)
別名:斑鳩寺/鵤寺
敷地(境内)の広さ:約187000平方キロメートル
ご本尊:釈迦如来
現住職:大野玄妙(2016年1月現在)
ユネスコ世界遺産登録年月日:1993年(平成5年)
奈良・法隆寺の歴史(年表)
法隆寺の創建以来の長~い歴史をまとめて確認してみましょう!
年 | 歴史(できごと) |
---|---|
574年 | 聖徳太子・誕生 |
586年 | 用明天皇、自らの病気平癒を祈願し法隆寺建立と薬師如来像造立の発願を決意 |
587年 | 用明天皇、崩御 |
593年 | 聖徳太子、推古天皇により摂政に任命される |
594年 | 三宝興隆の詔が発せられる |
595年 | 高麗の僧・恵慈が来日する |
601年 | 聖徳太子が斑鳩宮を造営する |
604年 | 聖徳太子が憲法十七条を制定する |
605年 | 斑鳩宮(現在の東院辺り)が完成し、移住 |
607年 | 斑鳩宮に隣接する形で斑鳩寺(法隆寺)を建立 |
611年 〜 615年 |
三経義疏(勝鬘経義疏、維摩経義疏、法華義疏)著す |
622年 | 2月22日、斑鳩宮で死去 |
623年 | 止利仏師が亡き聖徳太子の供養のために金堂釈迦三尊像の造立 |
643年 | 蘇我入鹿が聖徳太子の子である山背大兄王の一族を斑鳩宮で焼き討ちにする。聖徳太子の家系は断絶 |
670年 | 法隆寺、落雷により伽藍すべてが炎上(伝・日本書紀) |
710年 | この頃までに、現在の西院伽藍がほぼ完成 |
711年 | 中門の金剛力士像が完成。五重塔初重の塑像群が完成 |
739年 | 僧侶・行信、上宮王院を造営 |
747年 | 法隆寺伽藍縁起并流記資財帳が編纂される |
768年 | 大講堂にて吉祥悔過が初めて営まれる |
859年 | 僧侶・道詮が上宮王院の修繕を発願 |
859年 | 僧侶・道詮が上宮王院の修繕を発願 |
925年 | 西院伽藍の大講堂、鐘楼が焼失 |
990年 | 大講堂が再建される |
1035年 | 西大門が造営される |
1069年 | 秦致貞、東院絵殿に聖徳太子の絵を描く |
1078年 | 金堂の吉祥天像、毘沙門天像が完成 |
1121年 | 東室南面に聖霊院が造営される。聖徳太子および従者像が完成 |
1132年 | 康勝、金堂阿弥陀如来像の造立を発願 |
1250年 | 西円堂が再建される |
1284年 | 聖霊院が再建される |
1318年 | 上御堂が再建される |
1435年 | 南大門が焼失 |
1438年 | 南大門が再建される |
1596年 〜 (慶長年間) |
法隆寺伽藍堂舎全体的に修理される |
1606年 | 豊臣秀頼による修復事業が行われる |
1694年 | 徳川綱吉の母、桂昌院の発願で修復される |
1868年 | 神仏分離令が発布される |
1878年 | 「法隆寺献納宝物」を皇室に献納、金一万が下賜される (廃仏毀釈の風潮により寺が荒れ果てるのを防ぐため) |
1934年 〜 1985年 |
1934年から(戦争を挟んで1985年まで)昭和の大修理 |
1939年 | 若草伽藍発掘 |
1949年 | 解体中の金堂で火災が発生、壁画が焼損 |
1985年 | 昭和の大修理が無事終了する |
1993年 | 日本で初めて世界文化遺産に登録 |
1998年 | 百済観音堂・落慶法要 |
奈良・法隆寺「1400年存続の秘密」
ところで奈良・法隆寺の檀家制度はあるの??
結論から申し上げますと法隆寺に「檀家(だんか)」はありません。
従って「お墓」もありません。
これは同じ奈良県内の「東大寺」「薬師寺」も同様に檀家がありません。
「檀家(だんか)」とは、詳しくは「壇越(だんのつ/だんおつ)」のことを指し示します。
「壇越」の意味とは、「謝礼(お布施/金銭)」を寺院へお渡しして、先祖供養などを寺院にお願いすることです。
「壇越」の語源はインドの梵語の「ダーナパティ」という言葉からきているとされ、「寺院を庇護する者」という意味になります。
もっとも、古来では裕福ではない家もあったので、寺院の僧侶へ、金銭の代わりに衣服を提供するなど、物を渡していたと云われております。
先祖や祖先の供養は、永続するものなので、「壇越」の際に「寺院」と「供養をお願いする側」とで「壇越」の契約を結びます。
その後、時代を経る中で「壇越」という呼び方は、鎌倉時代の中頃を境に、変貌して行き「檀家」と呼ばれるようになったといいます。
ちなみに、お寺が葬式をし、墓を管理するようになるのは、中世以降のことで、檀家制度が整備されたのは江戸時代になってからの事だと云われております。
※中世=1192年(鎌倉時代)から1575年(戦国時代の初頭)
えぇっ?!奈良・法隆寺は学問をする場所だった?!!
奈良・法隆寺は古来、「学問寺」です。
「学問寺」とは言葉の通り「仏教学」を研究・探究する寺院です。
釈迦の教えの研究や布教など、お寺の本来の役割を追求し続けています。
法隆寺が今まで現存してこれた資金源って??
現在の法隆寺には境内以外に土地はありませんが、江戸時代までは「寺領」と呼ばれる領地を所有しており、この土地から年貢などの収入がありました。
平安時代や鎌倉時代には聖徳太子信仰が盛んになり、門前町が広がり「市(いち)」も開かれるほどの賑わいをみせています。
江戸時代には、寺内の仏像などを江戸まで運んで公開(御開帳)し、将軍家の寄進を受けるという、当時としては新しい発想で修理費用を確保しています。
明治時代、廃仏毀釈の波に飲まれそうになった時は、300点以上の宝物を皇室に献納することで下賜金1万円(当時の価値で約2億円)を手に入れ財源とし、はたまた購入した公債で得た金利を維持費にまわして何とか寺の存続と運営を成しています。
こうした僧侶たちの知恵と努力で、法隆寺は幾度もの危機を乗り越えてきたんですね。
現在は寺領こそありませんが、参拝者の拝観料や寄付、住職さんの講演、文化財の出張公開などで収入を得ています。
得た収入のほとんどは文化財指定の仏像群や堂舎群の維持費にあてられます。
法隆寺の別名「斑鳩寺」と、もう1つ「斑鳩寺」??
上述した通り、法隆寺には別名があり「斑鳩寺」といいます。
ただし、この斑鳩寺というのは兵庫県にも存在し、法隆寺同様に聖徳太子の手による創建と伝えられています。
さらに、驚くことに兵庫県の斑鳩寺の所在地ですがなんと!「揖保郡太子町鵤」と呼称し、聖徳太子の”太子”が入ります。
「兵庫県の斑鳩寺」は法隆寺よりも先に創建されていた?!!
この「斑鳩寺」は法隆寺よりも、先に聖徳太子が造営した寺院だと伝承されています。
歴史のことは、それほど詳しくない人でも法隆寺の名前は知っています。
法隆寺と言えば世界最古の木造建築の寺院というイメージがつきまとい、日本最古の寺院というイメージが払拭しきれませんが、法隆寺よりも歴史が古い寺院がそれほど遠くない距離に存在しているのには驚きを隠せません。
兵庫県・太子町「斑鳩寺」の創建年
- 606年(推古天皇14年)
実はこれには歴史的な由来があり、606年、聖徳太子が推古天皇に法華経の講義をし、播磨国にある水田を賜った縁で建てられたお寺とされ、室町時代までは法隆寺の支院でした(現在は天台宗)。
法隆寺が創建した当時は貨幣という概念がまだなく、貨幣が広く流通するまでは、土地そのものが財産となった時代です。
そして、その土地を開墾して田畑を耕し、育てた米が「収入」となりました。
そんなことから、聖徳太子は自らの見識と知恵を活かして難を切り抜け、後に父上のために建てる奈良の法隆寺の財源に積み立てたワケですね。
現在、兵庫県・太子町の斑鳩寺は、創建当初の規模ではなくなっているのが残念ですが、今でも「聖徳殿奥殿」という建物に「太子十六歳像」が祀られ、古くからの歴史を継承しています。
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