高さは33.67m?法隆寺 五重塔の見どころ【特徴・歴史・建築様式(内部構造)・作った人(作った理由)】を‥‥お知る?

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奈良法隆寺・五重塔【国宝】

創建年

  • 不明
  • 推定:605〜607年(推古天皇13年〜15年頃/飛鳥時代)
再建年

  • 不明
  • 推定:680年〜710年頃/飛鳥時代 ※現在の五重塔
法隆寺五重塔の大きさ(高さ)

  • 基壇上より32.56m
  • 相輪(屋根上の金属部分):9.69m
  • 塔身:22.87m
  • 基壇:1.11m
  • 総高:33.67m

 

画像引用先:http://noukakuken.jp/

※これだけの高さの木造の塔で1300年もの歴史持つ塔は世界でも例がない。

建築様式(造り)

  • 一軒・五重
  • 雲斗
  • 雲肘木
  • 角垂木
雲斗雲肘木って何?

「雲斗雲肘木(くもと ひじき/くもます くもひじき)」とは、雲の形をした建築の部品のことをいうのでレスぅ。..プぅ。

主に飛鳥時代に用いられたので..プぅ。雲の装飾は槍鉋(やりがんな)を用いて彫られているので..プぅ。

雲斗雲肘木(くもと ひじき)とは、雲の形をした建築の部品のことです。

じゃあ「角垂木」て何?

垂木とは屋根に裏側で屋根を支えるための木のことレス。垂木には加工方法が建築物によって異なり丸く加工を施す「丸垂木」と四角の形の「角垂木(かくたるき)」とに分かれるのレスぅ。…プっ!

角垂木(かくたるき)」て何?

初層の面積

  • 三間(5.5m)
屋根造り

  • 本瓦葺
4隅の柱の製作年

  • 1604年(慶長9年/安土桃山時代)
相輪(そうりん)の製作年

  • 1696年(元禄9年/江戸時代初期)
塔の中央の心柱の伐採年

  • 推定594年
1階(初層)裳階(もこし)の素材

  • 板葺
塔の中央の心柱の設置方式

  • 掘立柱(地中埋め込み式)
重要文化財登録指定年月日

  • 1897年(明治30年)12月28日
国宝指定年月日

  • 1951年(昭和26年)6月9日




法隆寺五重塔には別名があった?

あまり知られていませんが、この法隆寺五重塔は「現身往生の塔(うつせみおうじょうのとう)」という別名があります。

この由来はこの五重塔内で聖徳太子の子である「山背大兄王(やましろのおおえのみこ)」の皇子や皇女たちを含めた一族郎党24人が首を吊って自殺したためです。

法隆寺の五重塔は実は「六重塔」だった?!

法隆寺の五重塔を見ると、初層(1階)から数えていくと屋根が6つあることが分かります。

しかし法隆寺の五重塔は「五重塔」として知られています。

これはいったいどう言うことなのか?

実はなんと!初層部についている屋根は裳階屋根(もこしやね)であり、つまりは「補助的に付けられた屋根」になります。

裳階屋根は別名で「雨打ち」などとも呼ばれることから「雨除け」とも考えられていますが、法隆寺における裳階は少し解釈が異なります。

法隆寺五重塔の屋根は平行垂木で組まれており、この平行垂木を支える隅木が屋根の重量を支えきれずに下がってきたそうです。

そこで緊急対策として初層の四隅の隅木の下に「四角に加工した木の棒」を充てがったのです。

しかしこれだと見た目がカッコ悪いので四隅の木の棒を隠すために「連子窓と中央に間口が付いた壁」を四辺へ張り巡らせて木の棒を隠したようです。

これが法隆寺・五重塔の裳階屋根の正体です。

以上のことを言い換えると、『創建当初は五重塔(金堂)には裳階が存在しなかったが、屋根が垂れ下がってきたので後世で据え付けられた』ということになります。

法隆寺・五重塔の広さ・大きさ(各層の面積)

法隆寺五重塔は3間(5.5m)の正方形をしており、これが最上階となると約半分の大きさになるそうです。

つまり、初層から上層階に行くに従って、約50cmから60cmずつ小さくなっていることが分かります。(詳細は後述)

【補足】法隆寺の境内の敷地面積はいくら?

法隆寺境内の敷地面積は「18万7000千平方メートル」あるんダヨ。‥‥って言われても、数字で表すとなかなか広さがつかみづらいんダナ〜。

じゃぁこぅするネ!面積の例えによく利用される「東京ドーム」を例にあげてみるとぉ〜、驚くことになんと!「東京ドーム」が、ざっと4個分の敷地の広さになるそうダヨ。

ボクもね、それぐらい度量と器量のある大男になる予定なんダ。だからね、今のうちにボクに福沢さんを10枚くらいプレゼントしてると、後でたくさんイイことあると思んダ。

  • 東京ドーム1つ:4万6755平方メートル

あまり知られていない!法隆寺五重塔で行われた実験とは?

2006年に法隆寺の五重塔の心柱の実験が行われています。

この実験では、心柱の有無それぞれの状態の時に、どのくらいのマグニチュード(振動)に耐えられるか?‥‥という実験でした。

この実験の結果、驚くべきことが分かります。

なんと!!あの阪神・淡路大震災(兵庫県南部大震災/M7.3)と同様の振動を与えたところ、塔身を崩さずに耐えしのいだそうです。

さらに驚くことになんと!心柱が無しでも問題なく耐えきったとのこと。

この結果から、法隆寺の五重塔は、自然災害(地震や強風)などの振動を計算されて、建てられた仏塔であることがわかります。

同時に理解できることは、古代にそれだけの技術をもった職人や設計士が存在したということです。

【補足】心礎の模型を見たい場合は上御堂へ!

あまり知られていませんが、創建当初からの心礎の土に埋まっていた部分の模型が大講堂のさらに奥に位置する「上御堂(かみのみどう)」に安置されています。

出雲大社本殿の宇豆柱(うずばしら)が地中から発見されたときは随分と話題になりましたが、法隆寺五重塔の心礎も同じような太さや形状をしています。

奈良・法隆寺の五重塔の歴史

法隆寺五重塔は現存する木造の五重塔としては世界最古と云われます。

ただし、それでも創建当初のものではなく、現在見ることのできる法隆寺の五重塔の姿は、火事にて全焼後の「文武天皇4年(700年頃)」に再建されたものだと考えられています。

昭和の大修理の際に新事実が発覚!

1934年(昭和9年)より法隆寺では「昭和の大修理」が行われていますが、この昭和の大修理では腐朽のために心柱の一部が切り取られており、近年、編み出された新たな測定方法である「年輪年代法」を用いて測定されています。

年輪年代法とはその名の通り用材の年輪を測定して伐採された年月を測定する測定方法ですが、驚いたことになんと!この心柱が594年(推古2年)に伐採されたヒノキ(檜)であることが明らかにされています。

前述では670年ならびに700年頃の再建とお伝えしましたが、この事実を以ってそれ以前にすでに境内にて再建されていた可能性も考えられています。




奈良・法隆寺の五重塔の歴史(年表)

歴史
605〜607年頃 法隆寺が創建される。それに伴い金堂、五重塔が建立されたと伝わる。
670年頃 法隆寺が炎上!伽藍が全焼す。
670年〜700年頃 五重塔が再建される。
1158年 五重塔が再建される。
1252年 五重塔に落雷。三層目から相輪へ向けて心柱を中心に炎上!僧侶たちが塔へよじ登りなんとか消化し一命を取り留める。
1926年 五重塔の心柱に空洞が見つかる。さらに心柱の下の地中にあった舎利容器が発掘される。
1942年 五重塔の解体修理が開始される。
1943年(元禄時代) 五重塔の解体修理中に壁画の痕跡が発見される
1952年 五重塔の修理が完了。落成法要が営まれる。

五重塔は地震でも倒れない!その制振構造(耐震構造)の秘密とは?

五重塔の構造的な特徴

  1. 五重塔は礎石(基壇)の上に乗っているだけ(地中に根ざしたような造りではない)
  2. 各層は柱などで繋げられておらず独立している
  3. 各層の部材はきっちりと固定されていない。組物を用いつつ、ほぼ上に重ねるように組み上げられているのみ
  4. 五重塔を支えているのは、4本の四天柱(心柱の四隅)と12本の側柱のみ

柔構造(じゅうこうぞう)

法隆寺・五重塔には「積み上げ構造」と呼ばれる、各階ごとに独立して組み立てたものを重ねて建てる建築方法が採用されています。

「積み上げ構造」とは、木材に穴を開けたり切り込みを入れるなどを行い、建物を支えるための最低限の木組みだけをしながら、それを積み上げていく工法です。

これは一見、手抜き工事のように見えますが、万が一の地震の際、木材同士が固定されていないことから、組まれた各部材が地震の揺れに同調するかのように動きます。

つまり地震の揺れを吸収しているという解釈が成り立ち、これにより簡単に倒壊しないようになっています。このような造り方や構造のことを「柔構造」とも言います。

スネーク・ダンス構造

上述したように五重塔の各層は積み上げ式によって上下各層が連接されている状態になっています。

この状態の建物に対して、地震や大風による揺れが生じた場合どうなるのか?

まず、上下各層がそれぞれ左右に交互に動きます。初層が右に動けばその上の層が左に動く、その上の層は逆に右へ動く、その上は左‥‥といった具合に、各層がクネクネと独立して動きます。

各層が独立して動く上、さらにそれぞれの層が左右異なる方向へ動くため、一方向に力が加わることなく、左右に分散されます。

画像引用先:東新聞

これがまず、五重塔が倒壊しない大きな理由の1つです。

ちなみに、このようなクネクネとした動き方は、まるで地を這う蛇のような動き方に似ていることから、建築用語で「スネーク・ダンス」とも呼ばれています。

ただ、揺れがあまりにもヒドいといずれかの方向へ倒れてしまう可能性も出てきます。

そこで登場するのが、心柱です。

この心柱を中心部に据えることで各層の横揺れが過剰にならないように抑えることができます。

東京スカイツリーにも採り入れられた五重塔の制振技術

これは東京スカイツリーを建造する際にも採用されたことですが、地震や強風時の揺れに対し、極限まで安全性を保てる方法を模索した結果、中央部に設けた円筒(心柱)と、塔体を構成する鉄骨(木骨)を構造的に分離し、中央部の心柱を「重り」として機能させることにより、飛躍的に制振構造が強まるという結論に至っています。

心柱の揺れ低減能力

東京スカイツリーを設計した「日建設計」の調査によれば、心柱の揺れ低減能力は、長周期地震動や直下型地震動といった様々な種類の地震動に有効的であることが証明され、心柱停止時を基準とすれば地震時で最大50%、強風時で最大30%になることが明らかにされています。

下掲、写真は東京スカイツリーの図面です。この図面を見れば中心部に本当に心柱が組み込まれているのが分かります。

画像引用先:https://www.tokyo-skytree.jp

なお、東京スカイツリーの心柱は五重塔同様にタワー中央部となる「円筒部(内部は階段室)」に据えられていますが、材質は木材ではなく「鉄筋コンクリート造」です。

日本の五重塔は倒壊例が極めて少ない

これは法隆寺五重塔を含めた日本の五重塔全体の統計としていえることですが、日本の五重塔はこれまでに地震による倒壊例がなく、その秘密とは、やはり、塔体の中央部に据えられた柱(=心柱)による影響が大きいと推察されています。

法隆寺・五重塔の建築様式の特徴




心柱(芯柱)

法隆寺・五重塔の中心には、「ヒノキ(檜)」で造られた「芯柱(心柱)/しんばしら」と呼ばれる1本柱が基壇(土台)から最上層(五層目)を通り越し、その上の相輪内部まで貫かれる形で取り付けられています。

この芯柱は直径約78㎝の八角形で、材の年輪から年代を測定した結果、なんと!!上述したように「594に伐採されたヒノキである」と伝えられています。

これが事実であれば、これまで定説とされたきた五重塔の再建年よりも100年も前のヒノキ材だということになります。

五重塔に使用されたえヒノキ産地はドコ?

法隆寺五重塔に使用されたヒノキの産地は「奈良県・吉野」という説が有力視されていますが、法隆寺の宮大工であった西岡常一大棟梁は宇陀郡の室生の山中と推定しています。

この理由は長さ30m以上で、78㎝の八角形に切り出すためには直径で2.5m以上必要であり、それだけのヒノキ材となると少なく見積もっても樹齢2000年の巨木が必要です。

しかしそのような巨木を遠地から運ぶためには多大な時間と労力が必要となり、そこで分析した結果、斑鳩にほど近い吉野や室生が挙げられたのです。

また、心柱とする際も、巨木をそのまま使用するのではなく、4つ割にして使用しています。これは芯を含めて使用すると湾曲やヒビ割れが生じるためです。

Aラインの形状

一見してわかる特徴は、初層(一番下)から上に行くにつれて屋根が小さくなっているということです。

つまり、女性のAラインワンピースのような形になっていることがわかります。

見る際は、少し後ろに下がって距離間とって見てみてください。

容姿がAラインの五重塔は、年代が古い証拠!↑緩やかなAライン状になっているのがお分かりいただけるだろうか?

法隆寺へ訪れる際は、ぜひ、ポケットグラスなどの望遠鏡を忘れずに持参してください。

容姿がAラインの五重塔は年代が古い証拠!

法隆寺の五重塔のみならず、五重塔という建造物について幾度も調査が行われてきましたが、その結果、五重塔が建立された時代が昔に戻れば戻るほど、一段一段の屋根の大きさの差は大きく異なり、逆に時代が現代へ近づくにつれて、差が小さく(同じに)なっていくそうです。(=逓減率)

つまり、分かりやすくいいますと、以下のようになります。

法隆寺の創建当初 ⇒ やや昔(約1600年/江戸時代初期頃まで)

初層の屋根がもっとも大きく、最上層(五層目)の屋根がもっとも小さい(緩やかなAライン)

やや昔(約1600年代) ⇒ 現代

初層の屋根も最上層の屋根も屋根の広さが同寸(同じ)

※注釈※ 五重塔の「逓減率・一覧」

逓減率とは?

五重塔の容姿を表現する時に「逓減率(ていげんりつ)」という言葉を聞くことがあります。

逓減率とは、初層(最下層)の面積(=屋根の広さ)に対しての最上層の面積の割合を意味します。

初層の面積に対して最上層(五層目)の面積が半分であれば逓減率は0.5になります。

これが1.0に近づくにつれて最上層と初層が等しくなっていき、Aラインではなくなります。

逓減率(ていげんりつ)=減少率(狭まる率)

逓減率が「0.5~1.0」の五重塔

・奈良・海龍王寺五重塔(700年代半ば):逓減率0.447
・法隆寺五重塔(700年前後):逓減率0.503
・奈良・室生寺五重塔(800年頃):逓減率0.594
・京都・醍醐寺五重塔(951年):逓減率0.617
・京都・海住山寺五重塔(1214年):逓減率0.74
・広島・明王院五重塔(1348年):逓減率0.714
・山口・瑠璃光寺五重塔(1442年):逓減率0.68
・奈良・興福寺五重塔(1426年):逓減率0.690

海龍王寺五重塔は初層と最上層の面積を比較した場合、最上層は初層の半分以下であることがわかります。

江戸時代以降の逓減率が「0.5~1.0」の五重塔

・京都・東寺五重塔(1644年)/0.75
・京都・仁和寺五重塔(1644年)/0.687
・栃木・日光東照宮五重塔(1818年/創建は1615年)/0.625
・香川県・本山寺五重塔(1910年):逓減率0.800

江戸時代以降の五重塔は、最上層と初層の面積に差がないことが分かります。

仏教における5大思想を用いて造営されている

これは法隆寺の五重塔だけに当てハマるわけではないのですが、五重塔は元来、初層(1階)から以下のような仏教的要素のもと、建立されているものだと云われます。

  • 「地(基礎)」
  • 「水(塔身)」
  • 「火(笠)」
  • 「風(請花)」
  • 「空(宝珠)」

これらの5つを「仏教における5大思想」として、仏教の世界観を表現していると云われます。故に「五重塔」。

この5大思想を用いることで壮大で果てのない「無限」という仏教の悟りの境地に例えた「宇宙観」を表現しているとされます。




相輪

法隆寺五重塔は相輪はかなり特徴的な相輪をしており、なんと!稲刈りで使用するような「鎌(かま)」が取り付けられています。

近くで見ないと分かるづらいのですが、信じられないことに確かに稲刈りの鎌が取り付けられています。

法隆寺の七不思議【その2】「五重塔の大鎌」

この摩訶不思議な鎌は法隆寺の七不思議と云われ、雷除けの呪い(まじない)の一種であると伝えられていますが、どうやら他にも理由があるようです。

この五重塔の鎌の謎については下記ページにてご紹介してます。

最上層(五層目)と初層部の屋根を支えている棒について

最上層の四隅の屋根の下を見ると「龍」や「邪鬼」の装飾が施された木の棒(置物?)が据えられているのが視認できます。

これらの木の棒は創建当初から存在したわけではなく、後世において据えられたものです。(推定:江戸時代元禄期/1688年〜1707年

棒が据えられた理由は定かではありませんが、呪い(まじない)の意味や、上述したように屋根の補強材としの意味があったと考えられています。

なお、法隆寺の金堂にもこのような龍や邪鬼の装飾がみられます。

法隆寺五重塔内部・1階の群像「塑造塔本四面具(塑像)」

法隆寺五重塔内部の1階部分には、中央の心柱を取り囲むように東西南北の方角に群像(塑像)が安置されています。

これらは「法隆寺群像」とも呼ばれており、すべてが国宝指定を受けるものです。

飛鳥時代や奈良時代では「塑像(粘土造りの像)」を造立する際、材料が限定されていた為か、涅槃像(ねはんぞう)が数多く造立されています。 

法隆寺五重塔の作者(作った人)っていったい誰?

法隆寺は607年、推古天皇と聖徳太子によって建造されたと伝えられています。

しかし日本書紀の記述によれば、670年(天智9年/飛鳥時代)4月30日に火災により全焼し、その後、伽藍すべてが再建されたと伝えられています。

近年に行われた調査の結果、西暦700年頃に再建されたのではないか?という説が有力視されています。

具体的には693年(持統天皇の7年)から法起寺の塔が建てられた706年(景雲3年)まで間という説です。

ちなみにこの調査は五重塔はじめ、中門の修繕時の廃材や部材などを分析して判明したようです。

法隆寺五重塔が創建された理由

定説では聖徳太子の父・用明天皇が病気になった際、病気の平癒を祈願するために、薬師如来像を祀る寺院建立を計画したものが法隆寺創建の起源であると伝わっています。

つまり、この五重塔も仏塔であることから、用明天皇の平癒を祈願して造営されたという解釈になります。

人体の異変を科学的に説明できない時代、頼みの綱は何と言っても仏様だったということですね。

しかし、この法隆寺の創建理由や創建年に関しては諸説あり、現代に至っても様々な学説が飛び交い明確にはされていません。

このように法隆寺には謎が多く残されていますが、はるか1400年前から現在に至るまで多くの人々から篤い信仰が寄せられ、大切に護られてきたということだけは事実です。

なお、この法隆寺は1993年(平成5年)に日本初となる「世界文化遺産」の登録指定を受けています。




寺院に塔がある理由とその由来

あなたがもし寺院に重塔があるのが不思議だと考えていたなら、今日からあなたのニックネームは「博士」です。

いや、本当に。いよっ、博士っ!

・・はい!と、いうワケで、少し脱線してしまいましたが、これも驚くことに、なんと!!寺院の塔は、お釈迦様の遺骨である「仏舎利」を納めるための建物だと云われます。

法隆寺五重塔の仏舎利の形状や中に入っていたものとは?

仏舎利とは言え、本物のお釈迦様のお骨が埋められているのではなく、代用品が埋められるのが通例です。

法隆寺五重塔の仏舎利は、大正15年に実施された防災工事の際、地中部分の心柱が腐って空洞になっているのが発見され、その中に心礎(心柱を据える礎石)が見えていたことがキッカケで世に知れることになります。

この心礎(しんそ)の部分には人為的に穴ボコが開けられており、その穴には鋳銅製の蓋が付いており、さらにこの蓋を開けるとまず、大きな銀製のお椀が出てきたのです。

この大きなお椀の中には、次のようなものが乗せられていました。

  • 鎖に巻かれた鍍金加工が施された銅製の合子(ごうし/身と蓋とを合わせる形式の容器)
  • 海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)
  • 玉類
  • 香木

画像引用先:法隆寺公式の有料冊子より

一番上の「合子」の中には、銀製の卵形の透し彫りの容器が入っており、さらにこの銀色の卵型の容器を開けると、その中には金で作られた卵形の透し彫りの容器が入っていたのです。

しかしこれだけでは終わらず、さらにこの金で作られた卵型の容器を開けると、もう1つ卵型をした金の容器が出てきて、この金の容器を開けると、その中に土師器(はじき/素焼きの土器)で作られた瓶が入っていたのです。

この瓶の中に仏舎利が収められており、この瓶こそが「舎利瓶(しゃりびん)」と呼ばれる類いのものだということが明らかにされています。

舎利瓶を鑑定した結果

この舎利瓶の調査を実施したところ、制作年代は白鳳期(7世紀前半)ということが明らかにされたのですが、肝心の仏舎利の方はというと信仰上の理由から公開されることはありませんでした。

ただ、口頭で公開された内容によれば、舎利瓶の中は、ドップリぷりぷりプリキュアなほどに水で満たされ、舎利の存在は確認できなかったとのこと。

これらの事実を以ってして、現在では仏舎利は無かったという見方が有力視されています。

なお、法隆寺五重塔の仏舎利は、かなり丁重に埋められており、古代インドの仏舎利の安置方法に類似していることから、一説ではインドから仏教とともに伝来した典型的な仏舎利の埋葬法であり、かなり貴重な例だと見られています。

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