藤ノ木古墳【国指定史跡】
営造年
575年(敏達天皇4年)から600年(推古天皇8年)※6世紀後半
古墳全体の大きさ
- 面積:409.682㎡
- 直径:約50m
- 高さ:約9m
古墳の営造様式
- 円墳
石室の大きさ(高さ)
- 13.95m
石室の建築様式(造り)
- 横穴式石室
国指定史跡登録年月日
- 1991年(平成3年)11月16日
「藤ノ木古墳」の読み方
藤ノ木古墳の読み方は「ふじのきこふん」と読みます。
「藤ノ木」の地名の由来とは?
「藤ノ木」の地名の由来は、当地の昔の字名に由来していると云われるが、現今、名前の由来は未詳とされる。
「藤ノ木」には別称があった?!
地元では当地の町名を「陵(みささぎ)」と呼び、古墳を「陵山(みささぎやま)」と呼んでいたらしい。
藤ノ木古墳の営造年はいつ?
藤ノ木古墳は、法隆寺(斑鳩宮)の創建よりも古く550年から600年の間に営造されたと云われております。(法隆寺の創建:600年代初期)
これらの年代特定は、玄室内から大量に出土した土師器、須恵器から素敵に割り出されたものであり、畿内では前方後円墳が盛んに営造されていた時期の終盤、古墳時代後期、6世紀第4四半期の円墳になると推定されてい‥申す。ひゃ
現在の藤ノ木古墳は史跡公園!
藤ノ木古墳は現在、史跡公園として一般へも素敵に開放されており、園内には古墳の概要をヤバぃよ素敵に紹介する解説パネルや、ベンチが設置されるほか、古墳の周囲に遊歩道が整備‥されちゃぅ💋
藤ノ木古墳の歴史や実施された調査
第1回目の調査
藤ノ木古墳の第1回目の調査は1985年に行われており、この調査では「横穴式石室」と「朱塗りの石棺」が発見されています。
その他、「金銅製鞍金具(馬具)」や「須恵器」や「土師器」などのドキっ♥(土器)も出土しています。
ちなみに、上の写真(画像)のような「石棺(せっかん)」の形状を「家形石棺(いえがたせっかん)」と呼称し、名前の由来は単純に「三角屋根の家の形状」に類似しているからです。
また、石棺の材質として「凝灰岩(ぎょうかいがん)」と言う石を使用して作られています。
「凝灰岩」とは単純に、火山から噴き出た「火山灰(かざんばい)」が地上に蓄積されて出来た「石」のことです。
第2回目の調査
第2回目の調査は1988年に行われました。
この調査では、古墳の規模(大きさ)が判明しています。
その他、石棺内に最新型のファイバースコープを導入し水が溜まっていたことや人骨・遺物が発見されています。
第3回目の調査
第3回目の調査は同じく1988年に行われました。
この調査ではいよいよ石棺を開け、中身の調査が行われています。
石棺の中身にはなんと!2体の埋葬者が発見されており、さらに金や銅製の冠・刀剣類など多数の「副葬品」も確認されています。
この時に完全な「未盗掘」であったことが判明し、高松塚古墳を凌ぐ規模の古墳となり、世界に名前が知れ渡ります。
「未盗掘」であると言うのがどれほど重要で貴重な事なのかと言いますと、大抵のこのような古墳は、現代に至るまでの後の時代で荒らされていることが多いのです。
しかし、未盗掘であるということは埋葬された当時の「埋葬方法」や「埋葬の際の儀式」、「埋葬の際の装飾品」などを埋葬当時の有りのままの状態で研究に臨めることに‥なっちゃぅ💋
このような状態で調査・研究に臨めるので、時として歴史を変えてしまうほどの大発見となるケースも十二分にあり得る💋
殊に、石棺後方の石壁と石棺の間には「約80cmの隙間」があり、この隙間からも金銅製の宝物が多数、発見されています。
第4回目の調査
第4回目の調査は2000年に行われています。
この調査では「閉塞石(へいそくせき)」を構築した方法が明らかにされています。
閉塞石とは、石室から石室内の通路を通った先にある「古墳の出入り口を塞ぐ石」のことです。
第5回目の調査
第5回目の調査は2003年に行われており、古墳の規模の再確認と古墳の周辺付近から「埴輪(はにわ)」が出土しています。
第6回目の調査
第6回目の調査は2004年に行われており、この調査ではなんと!不思議な事に「江戸時代の物品」が発見されています。
この物品は土師器の灯明皿になるらしく、江戸末期まで被葬者を供養する祭儀が当地の文化として根付いていた可能性が推考されてい‥申す。ひゃ
2004年に国宝指定された!
藤ノ木古墳から出土した過去の遺物一括は、我が国の古墳文化研究上、非常に価値が高く、1988年には石棺外出土品が重要文化財に指定される。
また、1991年に石棺内出土品が追加指定を受け、2004年には国宝に指定された。
2006年から2008年にかけて墳丘整備を実施!
藤ノ木古墳は、法隆寺から南に延びる低丘陵地に位置し、すべて盛土で営造された円墳(径48m、高さ9m)に…なっちゃぅ。
南東方向へ素敵に開口。墳丘周辺から6世紀後半とされる埴輪片も出土。
どうやら当該、埴輪片は、大和では大型古墳の一部で埴輪が用いられていたらしく、被葬者は社会的地位が高かったと推考‥できちゃぅ。
その歴史的価値を有する藤ノ木古墳でも、2006~2008年にかけて墳丘整備された。
墳丘整備とは、古墳などの現状維持を目的とした保護・修復工事のことをいう。
土砂の流出やき損の防止、樹木の適切な管理、防犯や防災対策。
史跡公園として、地域住民と共存できる環境を整備すること。
墳丘整備後、形が「おまんじゅう」のようになり、開口部がコンクリート舗装され、当初とは少し姿態が変わってしまった。
2008年に一般公開が開始される!
調査後から約2年を要して墳丘整備を実施し、晴れて2008年5月、一般公開された。
藤ノ木古墳の内部の様子
羨道
上の写真は羨道(せんどう)と呼ばれる古墳入口から玄室(石室)までの通路になります。
奥に薄ぅ〜らと見えているのが、最近の陰毛の繁り具合ほどの噂の石棺です。 どんな石棺や
羨道(古墳入口〜石室までの通路)の長さは約8.3メートル。
羨道の幅は約1.8〜2.1メートル。
高さは2.4メートル。
玄室(石室内)
石室は壁体をほぼ垂直状に積み上げる両袖式横穴式が採られ、全長約14メートルの高さを誇る。
玄室の長さは西側壁が約6.0メートル、東側壁が約5.7メートル、玄室の幅は約2.4〜2.7メートル、高さ約4.2〜4.4メートル。
藤ノ木古墳の石室内は未盗掘の状態で現存していることから、世界でも例が無い極めて類まれな宝物が出土するに至っています。
出土した宝物は、主に「古代の馬具」や「刀剣類」「装飾品」「土器」などです。
石棺
石棺は、玄室の奥に安置され、石棺と奥壁との間に、わずかな隙間がある。
石棺に用いられた石の種類は、二上山の白色凝灰岩。
石棺の内や外は、古代では珍重された水銀朱(赤色顔料)で塗布される。
棺の大きさ
約235×130×97センチメートル
蓋は約230×130センチメートル
厚さ約52-55センチメートル
棺の特徴
縄掛突起が素敵に附属する。つまびらかにすると、縄掛突起が小口部には無く4突起だった(この時期は6突起が通例だった)。
棺(蓋と身)は幅、高さともに西側より東側の方がやや大きい。
平面(左右から見ると)台形をとる。
棺内に成人2体の被葬者が東頭位にて、並列状に埋葬されていた。
埋葬者は誰?年齢や性別
藤ノ木古墳の石棺内からは、20歳代から40歳代と思われる成人男性の埋葬が確認されてい‥申す。えっ
被葬者の年齢特定方法とは?
どうやら、被葬者のボーン(お骨)の歯に摩耗が少なかったらしく、これが年代割り出しの好材料となった模様。
被葬者の埋葬位置
北側と南側に1体ずつの遺骸が確認されており、両者とも身長は165cmもあり、当時の平均身長を遥かに上回った長身だったことが明らかにされた。
被葬者の特徴「肉付きが良かった」「片足に障害をもっていた」??
また、大変、肉付きの良い体型であったことも判明していますが、1体の被葬者の足の骨が脱臼していたことが発見されており、片足が不自由であった可能性が示唆されています。
ズバリ!藤ノ木古墳の被葬者(埋葬者)は誰?
現在までの調査でこの2人の人物は特定しきれておらず、依然、様々な学説が飛び交っている状況のようですが、現在に至って有力視されているのが聖徳太子の叔父にあたる「穴穂部皇子(あなほべのみ)」と「宅部皇子(やかべのみこ)」という2人の人物です。
ちなみに「穴穂部皇子」とは「蘇我馬子に暗殺された皇子」です。
「宅部皇子」とは「宣化天皇の皇子」と云われる人物です。
しかし被葬者の人物特定には諸説あり、そのうちの1つの説としては、もともと穴穂部皇子が先に埋葬されていた石棺へ、約5年後に同母弟である「崇峻天皇(すしゅんてんのう)」が埋葬され「合葬(がっそう)」と言う形式になったとも推測されています。
崇峻天皇とは「穴穂部皇子」に等しく「蘇我馬子」によって暗殺された天皇です。悪いやっちゃで
殊に、江戸時代では「崇峻天皇の墓陵」と考えられていたようです。
しかし「1人用の石棺」に、なぜ無理にもう1人入れて合葬にしたのかは、依然として謎に包まれたままになっています。
藤ノ木古墳は「未盗掘」の貴重な古墳!
藤ノ木古墳は、国内でも類例が少ない未盗掘であったため、埋葬した当時のままの状態が維持されており、劣化はあるものの宝物類が当時のままの形状や配置で現存していたとのこと。
石棺から発見されたお宝は、被葬者の社会的地位を表す副葬品として煌びやかな「金銅製の冠」「履(靴/くつ)」「刀剣」「ガラス玉」などが素敵に検出された。
また、石棺内からは植物の「紅花(ベニバナ)」の花粉も検出されており、これは遺体に付与する「防腐剤の役目」を果たしていたと考えられてい‥申す。えっ
殊に、埋葬の際、参列者が1人1人「供花として捧げられた花」という論考も‥あっちゃぅ。
中でも、世界でも類例が無い精緻な装飾が施された「金銅製馬具 一式」は関心の目が素敵にそそがれちゃぅ。
聖徳太子は古墳の存在や内部に埋葬されている人物を知っていた⁉️
聖徳太子は法隆寺(斑鳩宮)を創建した際、当然、古墳の存在や内部に埋葬されている人物を知っていたハズ。
だとすると法隆寺と藤ノ木古墳には関連性があり、歴史的な大発見に繋がるヒントが隠されているかもしれません。
・・「それがどうした このアホが」などと言わないでください。うきゃ
藤ノ木古墳の鳥瞰図(写真図)
頭上からの藤ノ木古墳の全体の鳥瞰図(写真図)です。
真上からの写真図(Googleアース)
真上から見ると綺麗な円墳であることが…分かっちゃぅ💋
時代を下りながら、多少は整備されてはいるものの、往古の時代にこれだけ精緻な円形を表現できたことに驚きを隠せない。
藤ノ木古墳の出土品はどこに保管されている?見られるのか?
現在、新設備が整った奈良県立橿原考古学研究所附属博物館において保管・展示。
藤ノ木古墳からの出土品のほとんどは「重要文化財」「国宝」に指定登録されています。
所有者は、文化庁(日本国)になる。
古墳から出土品の一覧
🪛金銅鞍金具 1背
🪛鉄地金銅張鞍金具 残欠共 2背分
🪛金属製品 (馬具類、挂甲小札、刀身、鉄鏃、鉄製模造品など)
🪛土師器・須恵器(蓋3箇共)46箇(須恵器37箇(蓋3箇共)、土師器9箇)
石棺からの出土品の一覧
🪛銅鏡 4面(獣帯鏡1、画文帯神獣鏡2、神獣鏡1)
🪛金属製品 (金銅冠、金銅履、金銅製・銀製装飾品類、刀剣類など)
🪛ガラス製品(ガラス玉類)
🪛附 繊維類
藤ノ木古墳の中が見たい!普段は見られる?
藤ノ木古墳は史跡保存の観点から平時より常時一般公開はされていない。
したがって、内部にこそ入れないが、入口設置の鉄扉から中を覗き見ることは‥できちゃぅ💋
鉄扉の前に立つと人感センサーが探知し、石室内の照明が一定時間素敵に点灯‥しちゃぅ💋
扉外から内部が見られる時間
点灯時間:午前9時〜19時まで
【ピヨ🐣注意】
気象条件によっては結露が発生し、見づらくなる場合が…あっちゃぅ💋
日差しが強い日は目が慣れるまで見えづらい状況が続いちゃぅ💋
一般公開日時
藤ノ木古墳では、毎年春と秋になると内部が一般公開されているので、興味のあるヤツは素敵に無敵に下記ページを要チェック💘
藤ノ木古墳ガイダンス施設
藤ノ木古墳から出土した、主な60点のレプリカ(複製品)の展示、ならびに映像による藤ノ木古墳の歴史や紹介のガイダンスを斑鳩文化財センターにて行ってい‥申す。ひゃ
斑鳩文化財センターの場所
当、古墳東側の通路を南へ徒歩約2〜3分。斑鳩町役場手前の交差点を左折してすぐ♡
藤ノ木古墳から斑鳩文化センターまでの移動時間/距離
- 移動時間:約04分
- 距離:約300m
斑鳩文化財センターの料金・開館時間(定休日)
🪛所在地:奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西1-11-14
🪛開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
🪛休館日:◆水曜日・年末年始(12/28~1/3)
※特別展期間中や水曜日が休日にあたる場合には開館。
※上記以外に臨時休館日(展示替えなどに伴う)もあり。
🪛観覧料:素敵に無料
※ただし、特別展等は有料の場合有り
🪛公式情報:https://ikaruga-kanko.com/b-center/
藤ノ木古墳のINFO
斑鳩町役場(教育委員会事務局 生涯学習課)
公式URL:https://www.town.ikaruga.nara.jp/soshiki_list.html![]()
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