奈良 法隆寺・聖霊院「聖徳太子像」および「山背大兄王像、殖栗王像・卒末呂王像・恵慈法師像」【国宝】

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奈良 法隆寺・聖霊院「聖徳太子像」および「山背大兄王像、殖栗王像・卒末呂王像・恵慈法師像」【国宝】

聖徳太子像・山背大兄王像、殖栗王像・卒末呂王像・恵慈法師像の読み方

法隆寺の境内には難しい漢字の表記で読みにくい名前の仏像や堂舎がありますが、それぞれ以下のような読み方をします。

聖徳太子像→「しょうとくたいし
山背大兄王像→「やましろのおおえのおう
殖栗王像→「えぐりおう
卒末呂王像→「そまろおう
恵慈法師像→「えじほうし

聖徳太子像【国宝】

画像引用先:http://i1.g.yun.hjfile.cn

造立年

1121年(保安2年)※平安時代

像高

84.2㎝

造立方法

木造・切金※彩色

安置場所

聖霊院

法要

お会式(聖霊会)

聖徳太子像は太子の何を表現した像なのか?

仮設1:摂政になった聖徳太子を表現した像

「聖徳太子像」および後述の「山背大兄王像、殖栗王像・卒末呂王像・恵慈法師像」は、聖徳太子500回忌の法要の際して造立された仏像群であると伝わります。

聖徳太子像は冠をド頭の上に乗せ、笏(しゃく)という衣冠束帯の着用時に持つ薄い板を持ち、袍(ほう)と呼ばれる服を着用した像であることから、摂政の45歳の太子を表現した像であると考えられています。

尚、ド頭の冠中央の化仏(けぶつ/小さい仏)は、四天王の多聞天(たもんてん)になります。

仮設2:勝鬘経を講じる太子を表現した像

太子が35歳の時、自らが著したとされる「勝鬘経(しょうまんぎょう)」を推古天皇の御願により、大勢の前で講義した姿を表現した像であると考えられています。

勝鬘経とは、大乗仏教の教理や理念を記した経典であり、太子はこの経典を独自に翻訳し、「勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)」と呼称する経典を残しています。

※注釈※義疏=経典を翻訳した本

この講義で太子は「善行(善い行い)の初歩は、まず、仏(如来)に帰依(きえ/=仏を心底、信仰する事)することである」と述べています。

尚、上述の多聞天の化仏は、勝鬘経を大勢の前で講義した際に、なっ、なんとぉぅ!「蓮華が天から降りてきて化仏が冠に宿った」との伝記を示すものと考えられています。

 

以上のような2つの説から、この太子像は別名で「摂政像」もしくは「勝鬘経講讃像(しょうまんぎょうこうさんぞう)」とも呼ばれています。

現在では、勝鬘経を講じた太子像である説が有力視されています。

聖徳太子とは?

聖徳太子は謎多き人物であり、日本人であったのか渡来人(とらいじん=外国人)であったのかも謎とされています。

幼名は厩戸(うまやど)ですが、この命名理由については諸説あるようです。例えば次の通りです。

  • 馬小屋の前で生まれた
  • 蘇我馬子の馬=厩をとった
  • 誕生した場所の地名
  • 中国に伝来していた景教(キリスト教)のキリストに端を発する誕生説

「聖徳太子」という名前は太子の死後130年後に歴史上にはじめて登場していますが、706年に作成された「法起寺三重塔露盤銘(ろばんめいぶん)」によると当初、「上宮太子聖徳皇」や「上宮之厩戸豊聡耳命」とも名乗っていたようです。

さらに日本を代表する古文書「日本書紀」にも太子の名前に関する記述があり、720年(養老4年)頃には「豊耳聡聖徳」、「豊聡耳法大王」、「法主王」、「東宮聖徳」などと名乗っています。

これらの名前がすべて事実と捉えるのであれば別名が複数存在したことになります。

574年(敏達天皇3年)に橘豊日皇子(用明天皇)と穴穂部間人皇女との子供としてこの世に生を得ています。

橘豊日皇子も穴穂部間人皇女も蘇我氏であり、太子も生まれながらにして蘇我氏の血縁(一族)という宿命を背負っていたことになります。

593年に叔父にあたる推古天皇の推挙によって史上初の摂政に任命されています。

つまりは19歳もしくは20歳で天皇の最高補佐官となったことになり、この事実からも太子の聡明さを窺い知れます。

その他の説としては推古天皇が女性天皇(東アジア史上初の女性天皇であったため、政治に疎かったのも理由に挙げられます。

601年(推古天皇9年)に斑鳩宮(現在の東院伽藍)造営の発願を行い、605年(推古天皇13年)に完成した斑鳩宮に移り、以後、生涯に幕を下ろすまでこの宮で暮らしています。

603年(推古天皇11年)には「冠位十二階」を定めて、「位ではなく才能によって人材登用する法律」を掲げ、平等で平和な国家としての位置づけを、より強固なものにしています。

604年(推古12年)には、有名な「十七条憲法」を制定し、「すべての人は平等である」と述べています。

しかし、単に平等を掲げても中には受け入れない人間も出てくるので、そこで「維摩経義疏(ゆいまきょうぎしょ)」や「勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)」といった仏法を基とした本を著し、さらにこれを講じて多くの人々を仏法に導くことで平和を実現しています。

これらの太子の思想は師である恵慈(えじ)の影響が大きいことは言うまでもなく、さらにこの恵慈と言えば中国・隋(ずい)にも通じた人物であったことから、中国・隋の文化を朝鮮と言うフィルターに通し、踏襲する形で太子によって法隆寺が創建されたと考えることができます。

その後、622年(推古天皇30年/飛鳥時代)に49歳で斑鳩宮にてこの世を去っています。

聖徳太子の言動から考察する法隆寺創建年

現段階での法隆寺造営年は607年(推古天皇15年/飛鳥時代)と考えられていますが、この根拠は金堂安置の薬師如来坐像の光背の刻銘や、法隆寺に伝わる747年(天平19年)に作成された「資財帳(法隆寺伽藍縁起并流記資財帳/ほうりゅうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)」の記述によるものです。

この他、聖徳太子の言動や宝物を記した「聖徳太子伝私記(しょうとくたいしでんしき」によれば、太子が法隆寺創建の工事を開始したのが、推古天皇が三宝興隆の詔を発した594年(推古2年/飛鳥時代)とされています。

これらの記述を正史とするのであれば、594年から13年がかりで法隆寺が創建されたと考えることができます。

創建以降も太子は法隆寺造営に生涯をかけて尽力し、49歳となる622年にこの世を去っています。

山背大兄王像【国宝】

造立年

1121年(保安2年)※平安時代

像高

63.9㎝

造立方法

木造・切金※彩色

安置場所

聖霊院

法要

お会式(聖霊会)

聖徳太子との関係

生年は不明、太子の息子であり、つまりは蘇我氏の一族になります。

父親・太子を深く敬愛し、自らも率先して仏法を重んじたと伝えられていますが、蘇我氏の派閥争いや権力闘争に巻き込まれ、643年(皇極天皇2年)に斑鳩宮もろとも蘇我入鹿に滅ぼされてしまいます。

尚、入鹿によるこの斑鳩宮襲撃によって山背王の一族郎党すべて斬殺、もしくは逃げ落ちた挙句、生駒山内で首を吊って自害しています。

つまり、聖徳太子の家系(上宮王院家)は斑鳩宮襲撃によって断絶したということになります。


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殖栗王像【国宝】

造立年

1121年(保安2年)※平安時代

像高

53.9㎝

造立方法

木造・切金※彩色

安置場所

聖霊院

法要

お会式(聖霊会)

聖徳太子との関係

聖徳太子の異母兄弟になります。用明天皇の第五皇子で母は穴穂部間人皇女です。

殖栗王に関して記述された資料が乏しく、生涯が謎に包まれた人物です。

卒末呂王像【国宝】

造立年

1121年(保安2年)※平安時代

像高

52.4㎝

造立方法

木造・切金※彩色

安置場所

聖霊院

法要

お会式(聖霊会)

聖徳太子との関係

卒末呂王に関しても太子の兄弟皇子と伝わっているだけで、謎多き人物となります。

恵慈法師像【国宝】

造立年

1121年(保安2年)※平安時代

像高

63.9㎝

造立方法

木造・切金※彩色

安置場所

聖霊院

法要

お会式(聖霊会)

聖徳太子との関係

寺伝によると595年(推古天皇3年)に日本へ訪れ、厩戸皇子(聖徳太子の幼名)に仏教を伝授した朝鮮半島の高句麗(こうくり)の僧侶です。

596年(推古天皇4年)には、法興寺(現在の飛鳥寺安居院)を造営し、蘇我善德を寺の住職に据え「三宝の棟梁」と呼ばれています。

太子の師でありながら、後に弟子である太子が著した「維摩経義疏(ゆいまきょうぎしょ)」や「勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)」と「法華経」を携えて、高句麗で布教活動を行うために帰国しています。

しかし、その後、太子が自らよりも先にこの世を去ったことを知ると、赤子のように泣き叫び、自らも太子が没した2月22日(現在の4月8日)にこの世を去り、浄土で太子に再会することを誓います。

その最後の言葉通り、翌年の623年の2月22日(4月8日)にこの世を去っています。

まるでフランダースの犬の少年ネロとパトラッシュを彷彿とさせる悲しい涙モノの物語です。コンコン

「聖徳太子像」および「山背大兄王像、殖栗王像・卒末呂王像・恵慈法師像」の歴史・特徴

平安時代の仏像の特徴が顕著

これら5つの仏像を見て分かりますが、もっとも平安期の仏像の特徴が顕著な点がプックリとした丸顔になります。

また、特筆すべき注目点が太子像のお目目です。

この時代に造立された仏像のほとんどは、目の部分を彫刻して造形していくのが通例ですが、な、なんとぉぅっ!この太子像に関してはエメラルドのような薄い緑のガラス板がハメ込まれています。

つまり、かなら手の込んだ造りの仏像と解釈することができ、これは聖徳太子像が他の仏像とは一線を画す貴重な仏像を示す証拠の1つとも捉えることができます。

またこの太子像のみ、聖霊院の内陣奥の唐破風(からはふ)付きの豪華な厨子に安置されていることからも、その重要度が分かります。

この他、表面には切金(截金/きりかね)と呼ばれる金箔・銀箔などと絵の具(顔料)を混ぜ込んだ塗料が塗られています。

現在はわずかに彩色が残るのみですが、造立当初は見事な彩色の仏像であったことが想像につきます。

聖徳太子像はいつでも観れない?!

大抵の仏像はいつでも観れるような印象がありますが、この聖徳太子像はなんと!1年に1回しか拝観することができません。

その1年にたった1回拝観できる日が「お会式」になります。

「お会式」とは?

聖徳太子好きであれば「3月22日」の数字を見てピンっ!ときた方もいると思われますが、お会式とは「聖徳太子の命日(旧暦2月22日)」に執り行われる法要になります。

この聖徳太子の命日を供養するために営まれる大法要が「お会式」です。

お会式の歴史は古く、748年(天平20年)頃から受け継がれている、法隆寺における最大規模の大法要となり、毎年行われる聖霊院の法要を「小会式(おえしき)」と呼称します。

この聖霊院で執り行われるお会式の期間は、例年3月22日から3月24日の13時から執り行われ、この期間中の3月22日のお会式(御命日法要)の時にのみ、上述の「聖徳太子像」および「山背大兄王像、殖栗王像・卒末呂王像・恵慈法師像」を特別に一般公開されます。

また、お会式の前日となる3月21日の夕刻18時頃、御逮夜法要(おたいよほうよう)と言う法要が営まれ、この法要の時にも内陣厨子の扉が開かれ、聖徳太子像および従者像(山背大兄王像、殖栗王像・卒末呂王像・恵慈法師像)を拝観できるとの話です。

尚、「逮夜法要」とは故人が亡くなった前夜のことを意味します。

法隆寺・聖霊院のお会式前夜「御逮夜法要」の概要

日程:3月21日(御逮夜法要)
開催時間:18時~
入場料金(参加料金):無料

法隆寺・聖霊院のお会式「お小式」の概要

日程:3月22日
開催時間:13時~
入場料金(参加料金):無料

お会式は聖霊院内部に座席が設けられ、先着順で着席する形になります。
混雑具合に関しては当日、法隆寺へ問い合わせてみてください。

 

法隆寺・聖霊院に関しての詳細は以下の別ページにてご紹介しております。

奈良・法隆寺「聖霊院 」【国宝】

「聖徳太子像」および「山背大兄王像、殖栗王像・卒末呂王像・恵慈法師像」の安置場所

「聖徳太子像」および「山背大兄王像、殖栗王像・卒末呂王像・恵慈法師像」は聖霊院に安置されています。
聖霊院は中門を向かい見て右手の方向に位置します。

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