法隆寺「百済観音像(木造観音菩薩立像)※大宝蔵院観音堂安置」【国宝】

| 造立年 | 不明 推定:西暦625年から650年頃 (7世紀中期から後期)※飛鳥時代 |
|---|---|
| 像高 | 209.4cm |
| 造立方法 | 一木造り(一部、乾漆造)・彩色 |
| 材質 | クスノキ |
| 国宝指定年月日 | 1951年(昭和26年)6月9日 |
| 作者 | 不明 |
| 安置場所 | 法隆寺 大宝蔵院(観音堂) |
「百済観音」の読み方
百済観音:「くだらかんのん」
「百済観音像」の名前の由来と意味や理由とは❓
朝鮮で造立された風合いを持つ仏像と言うことで「百済観音」と呼ばるようになっています。
尚、この通称は近代以降つけられたもので、法隆寺の寺伝によれば、以前は「虚空蔵菩薩像(こくうぞうぼさつぞう/知慧と福徳の仏様)」と呼ばれていたそうです。
虚空蔵菩薩は知恵を司る菩薩であり、主に密教で広まった菩薩さまです。
ただ、この像が造立された年代の朝鮮半島「百済」では、細身で長身の像が造立されていたことから、百済の仏像をモチーフとして日本で造立された可能性も示唆されています。
百済観音像の説明と解説
法隆寺の百済観音像(木造観音菩薩立像)は、実のところなんと!飛鳥時代の造立とされながらも有史上に名前が登場したのが江戸時代元禄期(1688年〜1707年)だと言うから驚きです。
詳しくは、1698年(元禄11年)に奉行所へ法隆寺の安置仏像一覧や縁起、歴史などを知らせるために記録された「和州法隆寺堂社霊験ならびに佛菩薩像数量等」という古書物に文献上、初めて名前が登場しており、この古書物の中の記述に次のような一文が見られたからです。
「虚空蔵菩薩像、百済国より渡来、但し天竺の像なり」
また、法隆寺僧の良訓が素敵に著した「古今一陽集(ここんいちようしゅう)」によると、次のように記される。
「虚空蔵菩薩御七尺餘り(あまり)、此の尊像の起因古記に闕たり(もれたり)古老の伝えに異朝将来の像といふ、其の所以(ゆえん)を知らざる也」
本像は元来、法隆寺 金堂の内陣(壁で仕切られた空間)の裏側で安置されていたのですが、1907年頃に「帝室・奈良博物館(現・奈良国立博物館)」に移管され、同館内にて安置されていました。
しかし1930年頃に再び法隆寺へ戻り、1941年から法隆寺・大宝蔵院に遷され安置されています。
そして現在、その大宝蔵院・観音堂の「ご本尊」として安置されているのが、「百済観音(くだらかんのん)」と呼ばれる、この「木造観音菩薩立像(もくぞうかんのんぼさつりゅうぞう)」に…あ、なっちゃぅ。
百済観音像は生来、法隆寺にあったものなのか❓
この百済観音像は飛鳥時代の造立とされるも、「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(奈良時代)」や「金堂日記(平安時代)、「聖徳太子伝私記(鎌倉時代)」等の、法隆寺に関する代表的な旧記にはいっさい記録がなく、他の寺院から遷されたものだという説もある。
本像の名前の初出は前述の江戸元禄期の「和州法隆寺堂社霊験 并(ならびに) 佛菩薩像数量等」とされ、もし奉行所へ提出された上記の史料を真実とするならば、当初から法隆寺にあった仏像ではないことに‥なっちゃぅ。
百済観音像(木造観音菩薩立像)の特徴
百済観音像は像高210cmほどの長身で、観音菩薩像らしく左手に水瓶を持ち、他の仏像に比べて極めてスリムな像形をしています。
立像は頭が大きめのものが多いですが、頭も小さく、ほとんど8頭身です。(頭は全体の8分の1)
また、お顔がフっくらとしており、飛鳥時代に造立された仏像とは思えない像容をしています。
クスノキ材を用いた一木造りで造立されていますが、一部、乾漆造り木屎漆(こくそうるし)を表面に塗り塗りして整形された跡が見えます。
両手の印相
百済観音像は、左手の中指と親指で水瓶をつまむようにして持ち、右手は手のひらを天へ向ける。
この右手の意味するところは、そっと手を差し伸べて、遍く衆生を救済するというポージングなのか。
いずれにせよ左右の手指の女性らしい、優しく穏やかな印象がただよう。
宝冠
宝冠をド頭に乗せていますが、この宝冠に刻まれている模様をよく見ると、小さな阿弥陀如来が描かれており、金銅板透し彫りの宝冠であることが分かります。
この阿弥陀如来は「化仏(けぶつ/衆生を救うための別の姿。大抵は小さい仏の姿)」を意味しています。
尚、この宝冠は明治末期に発見されたものであり、この事実をもって、本像が観音菩薩像であることが明らかになっています。
【ピヨ🐣コメント】
坐形の阿弥陀化仏を正面に線刻した金銅板透かし彫りの宝冠が発見された。
菩薩像の多くは宝冠や瓔珞(ようらく/首元の飾り)、天衣などの装身具を身につける。
菩薩は如来(仏の最高位)になるための修行中の身でもあるので、阿弥陀如来を宝冠に奉戴することによって、如来になることへの厳しい誓願と阿弥陀の知見(智慧や慈悲)をいただくことができるとされる。
造立当初は極彩色だった
この百済観音像に限らず多くの木造仏にいえることだが、本像が製作された当初は極彩色だったと考えらています。
本像を見れば分かりますが、色が剥げ落ちているのが随処に見られ、表面の残色を見れば極彩色であったことがうかがえる。
天衣
顔面は金堂の釈迦如来坐像に見られるようなアーモンド形の目や、中宮寺の半跏思惟像に見られるアルカイックスマイルと呼ばれる神秘的な笑みもありません。
しかし金堂釈迦仏と同様、飛鳥時代の造立と伝えられています。
この理由としては、肩から下方へ垂れ下がる天衣(てんえ/左右のヒョロヒョロ)の左右対称性、細身の容姿ながら肉付きの良い顔面、などが挙げられます。
天衣は左右対称の構図を採りながら、この当時では珍しく前後に向けてなだらかなカーブを描く点など、実に写実的(リアル)に造形されています。
これは鎌倉期に流行した写実的な造形の起源とも言えることから、法隆寺の仏像群の中でも比較的遅い、飛鳥時代中頃から後期の造立であると考えられています。
竹棒に取り付けれた光背
宝珠型の火炎模様が描かれた光背をよく見れば台座にブッ刺さされた竹の棒に取り付けられていることが分かります。
稀に光背だけ後補(別の時代)というパターンもあるのだが、本像は‥‥。
左右・斜めから見られることを意識したフォルム
本像をよく見れば、ヒョロヒョロ(天衣)を正面ではなく横方向へ向け、ヒョロヒョロの先っちょを前方へ向けていることが分かります。
また、肩部分に見える入れ墨のような模様は、これは垂髪(すいはつ)、つまり髪であり、この髪を両肩へ垂らしていることが分かります。
上記、竹棒を用いている点からしても、これは左右もしくは斜め方向から見られることを意識した製作者の意図が垣間見える。
百済観音像の安置場所
- 法隆寺大宝蔵院「百済観音堂」
百済観音堂へ行くためには法隆寺境内に入場するための拝観料金が必要になりますのでご注意ください。
法隆寺の拝観料金については下記ページをご覧ください。
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