法隆寺「若草伽藍跡(わかくさがらん)」【国宝】

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法隆寺・若草伽藍跡(わかくさがらん)【国宝】

法隆寺・若草伽藍(わかくさがらん)【国宝】引用先:http://bell.jp/pancho/travel/

国宝指定年月日

  • 1951年(昭和26年)6月9日

※若草伽藍は、法隆寺の旧境内における国宝という形で国宝に登録されています。

歴史的な大ビックリ!現在の法隆寺はすべて再建だった?!

奈良・法隆寺は607年(推古天皇15年)、推古天皇と聖徳太子によって建てられたと云われています。

しかし「日本書紀」には、その後670年に大規模な火災が起こり、全ての建物が焼失したという記述があります。

その後、近代に至るに伴い、日本書紀に記された「すべて焼失した」という事実を信用するかどうかで、長年、学者の間でも学説が飛び交い意見が分かれていました。

つまり現存している奈良・法隆寺の建物や伽藍の位置は「創建当初のままなのか?」

はたまた、

「再建されたものなのか?」

と、いう論争です。

そんな論争の最中、再建論が正しいことを決定づける証拠が出てきます。

その証拠となったものが、1939年に行われたこの「若草伽藍(跡)」の発掘調査です。




法隆寺・若草伽藍とは?

「若草伽藍」というのは、西院伽藍の南東側にある、かつて法隆寺があったとされる法隆寺の遺構です。

若草伽藍は、現在の法隆寺境内とは、少しズレた位置に建立されていたことが判明しており、遺構跡は法隆寺の付近・周辺の民家の敷地にまたがっています。

法隆寺・若草伽藍の場所【法隆寺境内・地図】

法隆寺・若草伽藍の場所画像引用先:http://gathery.recruit-lifestyle.co.jp

法隆寺・若草伽藍で出土した物

2004年に行われた、法隆寺の若草伽藍の調査では、7世紀初頭の壁画片、約60点あまりが出土したと話題になり世間の話題をさらいました。

この壁画片には彩色が残されており、その彩色が歪に薄くなっていたことから調査をしたところ、なんと!1000度上の高温で焼かれていた事が判明し、この事実こそが法隆寺が火事で1度燃え尽きたと言う説の確たる物証となったようです。

尚、壁画片の大きさは約5cm四方の壁画片で地中2mの地層から発掘されたとのことです。

壁画片の大きさは、約5cm四方の壁画片で、地中2mの地層から発掘されたとのこと画像引用先:http://www.asahi.com/

壁画片の出土場所

壁画片の出土場所とは、西院伽藍の金堂の南、東大門の少し西約100mの地点で、若草伽藍が存在していた頃は、深さ約3mの谷であったと云われております。




法隆寺・若草伽藍の構成

調査研究によると「若草伽藍」は同じく聖徳太子が建てたと言われる四天王寺のような「塔」と「金堂」が南北に並ぶ「伽藍配置(四天王寺式)」であったと云われております。

四天王寺式伽藍(南北に以下の堂舎が一直線上に並ぶ)

金堂
講堂
仏塔
中門
南大門

画像引用先:https://kotobank.jp

また、出土した瓦の様式も、現在の法隆寺のものよりも古いことが明らかにされています。

これにより「若草伽藍が元々の法隆寺で、それが再建されたのが現在の西院伽藍である」ということが、ほぼ確認されたことになります。

ただ実際には、法隆寺は「誰が、いつ、なぜ再建したのか?」もしくは「どうして場所を移したのか?」など、明らかにされていない謎も多いのが事実です。

そう・・法隆寺は、実はまだまだ謎だらけなんですね。

そんな神秘に包まれた法隆寺に魅せられ、1度では飽き足らずに、ついついと幾度となく訪れてしまうのですね。

そしてその都度、表情を微妙に変えた法隆寺を、脳裏に刻んで帰途につくワケです。ウフ

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