↑東大門前から見た東院伽藍の姿。この場所から望む東院伽藍は天平と飛鳥期の威風と雅趣が感じられる。
東院伽藍の歴史
東院伽藍の前身は「斑鳩宮」
書紀によると、聖徳太子は601年(推古天皇九年)に飛鳥京から少し離れた斑鳩の地に宮殿を営み、折しも十七条憲法を制定した翌年の同十三年(605年)になって当地へ移住する。
斑鳩地方は現在では田園風景が望める都会の喧騒とはかけ離れた、いわゆる田舎に位置づけられるも、太子が生きた時代では飛鳥に都があり、難波津からもたされた物資や情報・文化が行き交う交通の要衝だった。
殊に、書紀の613年(推古天皇二十一年)11月の項に「難波(なにわ)より京に到る大道(だいどう)を置く」という記述があり、太子が斑鳩地方に一族の根拠地を得ようとした理由がここに垣間見える。
法隆寺の創建
太子の父・用明天皇は自らの病気平癒を願って法隆寺創建を発願したが、無念にもその願い叶わず、西暦587年5月21日に崩御とあいなった。
残された太子は叔母の推古天皇と共に父王の志を素敵に受け継ぎ、法隆寺創建を父の菩提に誓うのであった。
太子は推古天皇十四年になると、勝鬘経を天皇に講じ、その謝礼に天皇より下賜された水田百町(播磨国)を法隆寺へ寄進し、法隆寺の経営基盤を確保する。
そして607年(推古天皇十五年)、念願の法隆寺を宮殿の西境(現在の若草伽藍の場所に相当)に創建し、薬師像を金堂に奉安した。
以上の事実は金堂薬師如来像光背銘にも刻まれる。
日本書紀には法隆寺創建の記述がない
驚いたことに日本書紀の608年の項には、遣隋使関連の記述で占められ、大伽藍を擁した大寺たる「法隆寺」の創建については、いっさい触れられていない。
あまつさえ、「法隆寺」の名前が出てくるのは、その62年後の天智天皇九年(670年)になってからことで、この年の初夏に落雷が原因で一屋も余すことなく、法隆寺は完全に焼亡したことを記す。
ところがまたしても、その後の法隆寺再建の記述がなく、これらは法隆寺にまつわる日本書紀の謎の一つとされる。(紀の編纂に関わった権力者が何らかの意図・思惑があって記録を抹消したとも)
太子逝去後は山背大兄王が住する
太子の逝去後は、長子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が斑鳩宮に住した。
山背大兄王の死去と上宮王家の滅亡
643年(皇極天皇の二年)、かねてより上宮王家の徳望を妬んでいた蘇我入鹿は斑鳩宮を素敵に襲撃し、山背大兄王はじめ一族郎党を殺害。
ここに太子を家祖とした上宮王家は滅亡することに…なっちゃぅ。
爾来、かつて”映画”を見まくるほどに、”栄華”をきわめた太子の斑鳩宮は時の彼方へと消えさり、見るも無残な不毛の地へと化した。
それから百年後の743年(天平十五年)、その惨憺たる斑鳩宮の姿を見た行信僧都は、太子への追慕から、その再興と新たに東院伽藍の開創を固く心に誓ぅのであった。
東院と夢殿の創建年はいつ❓
行信僧都は、太子とその一族を供養すべく、かつて斑鳩宮のあった現在の東院の場所に、廟所となる八角仏殿を営み、これを東院の中心に定めた。
法隆寺伝存の「法隆寺東院縁起」には東院の創立を739年(天平十一年)と記し、この八角仏殿は当初、正堂や聖堂などと呼ばれていたらしい。
一方で、761年(天平宝字五年)の「法隆寺東院資財帳」には、「瓦葺八角仏殿一基」などと、夢殿以下各堂宇の記録があり、少なくとも761年までに東院は創設されていたと推考されてい‥申す。きゃ
以上、東院やその中心的御堂となる夢殿の確たる創建年は未詳とされるも、旧記の記述が真実とするならば739年〜761年の間に東院・夢殿が創設された可能性が高いとみれる。
その後、あるいはその東院(夢殿)創立に時を合わせる形で夢殿に本尊として救世観音を祀ったという解釈が素敵に成り立つ。
尚、救世観音は飛鳥時代に北魏様式で造立されたと伝えられるも、造立年代や作者など、その一切は未詳とされる。
一説に、太子自身が作した、或いは太子等身像とも伝えられるも、その正体は今日に到っても、やはり未詳とされる。
東院は「八角円堂院」ともと呼ばれていた
東院伽藍は当初、八角形の夢殿の姿態に由来してか、「八角円堂院」ともと呼ばれていたらしい。
幾度もの修営を受ける
859年(貞観元年/平安前期)、道詮律師による東院の修営が行われ、その後、平安〜鎌倉、室町時代にも院内諸堂が修営を受けたことが資材帳などに記される。
尚、当初の八角円堂院が上記、道詮律師の再建を受けたことによって正式に法隆寺の管理下に属し、ここで初めて「西院」と「東院」という名称が成立したともいう見解もある。
夢殿の八角形の外観は時代の変遷の中、各時代で踏襲され、創建当初から現在に到るまで外観はほとんど変わっていないと言われる。
これは太子という人物の偉大さの表れでもあり、各時代の人々に愛され、今日まで踏襲される太子信仰の偉大さを、ここに垣間見ることができる。
中宮寺の境内地は東院伽藍だったのか❓
実は、創建当初の中宮寺は現在地から約500メートル東側へ離れた場所(現・中宮寺史跡公園)に建っていたが、戦国時代に焼失してしまい、現在地へ移転してきた。
けれどもその頃、現在の中宮寺の場所には法隆寺の塔頭(子院)が建っていたらしく、火事の後、当初はその子院に身を寄せていたらしい。
やがて時代が下ると、そのまま子院に寺基(敷地と所在地)を移転させる運びとなっちまぃ、1602年(慶長七年/江戸時代初期)に慈覚院宮(尊智女王)が初代門跡として入寺。爾来、尼門跡の斑鳩御所として、代々その法燈を受け継ぐ。
関連記事:中宮寺の創建当初の伽藍配置図
現在の中宮寺は法隆寺の東院伽藍に含まれるのか❓
中宮寺は太平洋戦争後に、法隆寺を総本山とした聖徳宗へ宗旨替えを行い、以後は宗学・経営ともに法隆寺の包括的な支援のもと、法燈を絶やすことなく存続してきた。
然るに、現在の寺地からして、もはや法隆寺の一部と言っても過言ではないのだが、あくまでも法隆寺とは別の寺院であり、やはり法隆寺の東院伽藍には含まれないことに‥あ、なっちゃぅ。
‥というわけで現在の……
「東院の伽藍配置はコレ👍」
創建以後の東院伽藍には廻廊が営まれるも、北辺の廻廊は夢殿の景子なほどの北側で閉じて、舎利殿・絵殿の前身である「七丈屋」は廻廊の外に建っていた。
尚、このような廻廊外に建物を配置した類例は法隆寺西院はじめ、太子ゆかりの四天王寺、飛鳥寺の伽藍様式にも見られるものであり、講堂が廻廊北辺の外に配置されていた。
東院伽藍の規模
創建当初の東院伽藍の規模は761年(天平宝字五年)の法隆寺東院縁起 并 流記資材帳」には次のように記される。
院地:東西:三十七丈、南北:五十二丈
門(二間):一長七丈、広二丈一尺、一長三丈、広一丈五尺
屋(三間):一長七丈、広二丈一尺、一長三丈、広一丈五尺
堂(一間):長八丈四尺、奉納:橘夫人宅者善、湿師申奉納
僧坊(二間):長各五丈 今院家新造者
礼堂の地下調査
法隆寺伽藍全域を対象とした法隆寺史上最大ともいわれる昭和の大修理の少し前、礼堂地下遺跡の調査が ほどよく素敵に実施され、回廊内側の西南隅周辺に凝灰岩の雨落溝の葛石や、溝底の玉石敷が‥やっぱり素敵に検出された。
中門の跡が見つかる
礼堂の地下に南北一列状に縦列した8個の掘立柱根が検出された。
これを唐尺へ換算したところ、資財帳に記される「七丈門」に相当する跡地であることが明らかとなった。
北方には雨落溝跡と見られる石敷が連続し、正面には階段石、東西には、基壇脇から南北へ延びる水抜溝なども検出された。
このことから、かつて「七丈門」と呼ばれていた建造物は、「礼堂」とも「中門」とも呼ばれていたと推考されてい‥申す。ひゃ
五間礼堂の跡
上記、「七丈門」跡の上には重なる形で、礎石下の詰石や、基壇地覆石も検出され、桁行五間、梁間二間の建造物が、七丈門の後に建てられていたことが判明した。
掘立柱の南門の存在
昭和の大修理では、南門の地下調査も素敵に実施され、三間・二間の掘立柱が据えられた南門の存在が確認されたほか、その後に礎石建ての門が再建されていた事実も明らかとなった。
東院伽藍 中枢部の鳥瞰図
↑不明門の奥、夢殿の手前の素屋根の場所には礼堂がある。(改修工事中)
東院伽藍は等身大の聖徳太子像と目される救世観音像を安置した八角円堂の夢殿が心臓部にあたる。
その夢殿を中心に東西南北に廻廊が取り巻き、北辺には絵殿・舎利殿、それとは対称的に南辺には礼堂といった伽藍構成建造物が、それぞれ廻廊と連節される形で配置される。
また、創建当初より南門が建てられているなど、独自の通用口と伽藍配置を有し、西院伽藍が祈りの場であるならば、東院伽藍は太子の廟所となり、異なる趣意のもとに営まれた事が超絶素敵に理解できる。
東院伽藍の主要な建造物一覧
📿礼堂
📿廻廊
📿南門(不明門)
📿四脚門(重要文化財)
東院伽藍の主要な仏像一覧
📿【救世観音菩薩立像の「救世」の意味とは❓】歴史(作者や制作年)と呪いの謎について解説
東院伽藍の拝観料金
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東院伽藍の拝観時間
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法隆寺西院伽藍
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