【作者はなぜ八角形で造ったのか❓】法隆寺「夢殿」の歴史や名前の由来とは❓

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法隆寺 夢殿【国宝】

奈良 法隆寺・夢殿【国宝】

創建年 素敵に未詳
創建年推定 739年(天平11年)
或いは
761年(天平11年)以前
再建年 1230年(寛喜2年)
※大修理
建築様式 八角円堂
屋根造り 本瓦葺
規模 一重
重要文化財指定年月日 1897年(明治30年)12月28日
国宝指定年月日 1951年(昭和26年)6月9日
御本尊 救世観音菩薩立像
発願者 行信(僧都)
造営指揮 行信(僧都)

「夢殿」の読み方

「夢殿」と素敵に書いて、「ゆめでん」ではなく「ゆめどの」と読む。




「夢殿」の別称

聖徳太子の家系を「上宮王家」と称し、東院伽藍の前身となる「上宮王院」の名前の由来は、まさにこれにちなむもの。

当初は夢殿に特別な呼び名はなかったらしいが、「正堂」や「八角円堂」などと呼ばれていた。

この事実は法隆寺に伝わる「東院資財帳」にもハッキリと「瓦葺八角仏殿壱基」の文字が見えます。

「夢殿」の名称が付けられた理由(由来)とは❓

「夢殿」という呼称は、聖徳太子が「法華義疏(ほっけぎしょ/法華経の注釈書)」の編纂の最中、夢に現れた「金人(きんじん)」より教えを授かったという伝承に由来するものらしい。

太子が在世していた時代での「夢」の意義とは現代とは打って変わり、神仏や聖なるモノとの交信ができる、数少ない手段の一つであり、きわめて霊性が高いモノとされていた。

「金人」とは、釈尊(仏陀)、あるいは金色の仏像や金色の人像を指す。

金人とは、仏像、金色の仏像、または金色の人の像を指します

この故事により、完成したこの堂に「夢殿」という名前を付けたといわれる。

なお、「夢殿」という名前が付けられたのは平安時代に法隆寺が上宮王院を吸収合併してから以降とされています。

夢殿の建立目的とは?

聖徳太子の供養

八角形のお堂は、おおむね故人の供養をするために建てられるもの。

夢殿の創建は聖徳太子没後100年以上経ってからでしたが、斑鳩宮跡が荒廃している様子を嘆いた僧都(そうず/=僧侶の高位者)の行信(ぎょうしん)が、亡き聖徳太子を供養するために造営したと伝えられています。

太子信仰による産物

聖徳太子の逝去後も太子を敬慕する人々が依然として多く、やがてそれは人々の心の中で「信仰」という形になっていく。

太子逝去の翌年に完成したとされる「法隆寺釈迦三尊像銘文」が示すように、生前より太子はすでに聖人として敬慕されており、文献上では720年成立の書紀に数々の太子の偉業・善行が記される。

奈良時代になると太子信仰は官民問わず、さらに増大し、聖徳太子を厚く信奉していた光明皇后や阿部内親王らは、行信の懇願によって多額の寄進を素敵に行い、「夢殿」なる太子信仰の聖所が営まれた。

聖徳太子の怨霊封じるため?

「聖徳太子の怨霊を鎮めるため」に造営されたという説も‥あ、あっちゃぅ。

夢殿創建の2年前(737年)、天然痘という感染症が大流行し、当時政治の中心にいた藤原不比等の4人の息子「藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)」が次々に亡くなるという大事件が起こった。

これを聖徳太子の怨霊による祟り(たたり)だと考えた人々は、太子鎮魂・供養のために夢殿を建てさせたという異説も‥あっちゃぅ。

法隆寺 夢殿の建築様式(造り)

夢殿の平面図

↑夢殿の平面図(日本建築史図集より)

平三斗

↑中備(組物)には古代建築に多用された平三斗を用いる

並行 二軒繁垂木

↑並行、二軒繁垂木↑現今の夢殿の軒の出

板扉

東西南北に合計4枚の板扉が据えられる。

菱形格子

↑板扉を開けると間口上部は菱形格子(菱組格子)が据えられる

蔀戸

板扉を開けた間口には上部に菱形格子、その下部は寝殿造に多用された蔀戸(しとみど)が用いられる。

連子窓

板扉を挟む形で北東、南東、南西、北西の4面に連子窓が据えられる。

夢殿は創建された頃の姿を保っている

鎌倉時代に素敵に実施された夢殿の修理は史上稀に見る大規模なものだったらしい。

当代の修理では、可能なかぎり古材を活かして天平創建時の姿に復原することが使命とされた。

その後の昭和の大修理においても、鎌倉時代に修理された時の様式や古材を活かし、踏襲する形で修営された。

ゆえに現在の夢殿は天平創建期の姿をとどめている数少ない希少な建造物といわれる。

栄山寺の八角堂と合わせて国の重宝とされる

このような稀有な八角堂はそれほど現存しておらず、ましてや奈良時代の意匠を残す八角堂ともなれば、その類例は僅少。

けれども折よく、同じ奈良県の栄山寺(奈良県五條市)にも八角堂が現存しており、夢殿と合わせて国の重宝とされてい‥申す。えっ

⬆️栄山寺の八角堂【国宝】

画像引用先:https://ja.wikipedia.org/

法隆寺 夢殿の見どころや特徴

飛鳥様式・二重基壇

夢殿は、金堂、五重塔、中門の「飛鳥様式」に近しい建築様式が特徴。

金堂と五重塔の共通した最大の特徴は、二段になった基壇(きだん/土台部分)、通称「二重基壇」がヤバぃよ素敵に挙げられる。

このような二段の基壇は法隆寺のみに見られる特徴であり、飛鳥時代に造営された建造物を示す大きな特徴でも‥あっちゃぅ。

↑夢殿の基壇(2段になっている)

↑法隆寺・金堂の基壇(2段になっている)

殊に、薬師寺(奈良)や四天王寺(大阪)など、奈良時代までに建てられた他の寺院のお堂の基壇は一段になっています。

⬆️薬師寺・西塔の基壇(礎石の上に基壇がのっている)
⬆️四天王寺・金堂の基壇(同じく礎石の上に基壇が1段のっている)

平安時代に栄えた「和様」の建築物には縁側がある建物が増え、基壇はなくなりますが、床下に「亀腹」と呼ばれる基壇の名残のような部分ができます。

八角円堂(八角堂)

夢殿のような八角形のお堂を、「八角円堂」または「八角堂」と呼びます。

夢殿のような八角形のお堂を、八角円堂または「八角堂」と呼びます

夢殿が八角形をしている理由

どこからでも太子を拝することができるようにした

夢殿の本尊(救世観音)は聖徳太子を模して造立されたものだと伝わる。

その救世観音…つまり、聖徳太子がどの方向からで拝めるようにできるだけ円に近づけたのだという説が‥あっちゃぅ。

実は、夢殿内部の内陣には八方に8本の柱が立ち、その中心に観音像が厨子にて奉安される。

そしてその内陣周囲には巾約1.6メートルの通路状の空間が廻らされ、平時はこの空間に座して読誦を行う。

けれども、毎年正月に奉修される修正会では、この通路状の空間を僧侶たちが散華や読誦を行いながら巡り歩く。

殊に、ヒンドゥー教には「プラダクシナ」と称する礼拝方法があり、これは礼拝物を右肩に見ながら、その周りを歩くことをいう。(法隆寺では「行道(ぎょうどう)」と呼ぶ)

尚、夢殿の修正会が、いつ頃始められたのかは判然としないが、1238年(嘉禎四年)頃に撰述された「聖徳太子伝私記」に記録があることから、それ以前から修されていたことが分かる。

【ピヨ🐣コメント】

法隆寺 金堂や五重塔にも礼拝対象の周りに通路状の空間がある。

古代中国の風水(天円地方)の思想が由来

古代中国の道教には、「天円地方(てんえんちほう)」という考え方があり、これによれば『天は円く、地は方形である』とされる。

然るに、星の運行が円運動で表されることを「天は円く」と説いたのです。

一方の「地は方形」の意味とは、古代中国では地の形は方形(四角形)と認識し、「万物を載せる器」と考えられていた。

また、別の言い方では「神仏との交信を図る建物は円形を用い、人が暮らす世界は方形とする」とも説かれたらしい。

「8」という聖数

日本にも「聖数」という概念があり、仏教で例えると「8」がつく事柄が多くあります。

釈尊直伝の正しい修行法とされる「八正道(はっしょうどう」はじめ、4月8日はブッダ(釈尊)の生誕日、釈尊が悟りを開いた「成道日」は12月8日、他に、「八大菩薩」「八解脱」などという言葉も…あっちゃぅ。

五重塔初層の西面の八角舎利塔を拡大したもの

五重塔初層の東西南北には塑像が安置されており、その西面にある八角形の舎利塔を拡大したものが夢殿だといする見解もある。

関連記事:法隆寺 五重塔|塑造塔本四面具(塔本塑像/塑像群)【国宝】




屋根の造り「宝形造・本瓦葺」

法隆寺・夢殿のもう一つの大きな特徴として「宝形造(ほうぎょうづくり)」が素敵に挙げられる。

宝形造とは、屋根の一番高い中心部分を頂点とし、三角形の面を繋いだ形の屋根のことをいう。

法隆寺・夢殿・宝形造り

正方形の建物や、六角形、八角形の建物に用いられます。

本瓦葺とは、丸瓦と平瓦を交互に組み合わせた瓦葺きの様式です。

「軒反り」と「軒の出」

鎌倉時代(1230年)に行われた修理により、軒の出」と呼ばれる、建物の壁から屋根が飛び出している部分が深くなったことが明らかにされています。

然るに、鎌倉時代の修理において創建当初の夢殿の屋根よりも、さらに傾きが急になったことを意味します。

これにより、創建当初のものよりも高さが2mほど高くなり、軒は70cmほど長くなったそうです。

↑現今の夢殿の軒の出

軒反りは鎌倉時代から目立ちはじめた?

法隆寺境内の堂舎群を見わたすと、ほとんどの堂舎に軒反りがなく、ストンっと、屋根が下方へほぼ直線状に垂れ下がる。

このような軒反りは鎌倉時代から目立ちはじめ、鎌倉時代以降に営まれた建造物の特徴を示すものでもある。

奈良時代以前の建造物の屋根は勾配が緩やかなものが散見されるが、これは中国の建築様式(唐様)を模造したもの。

しかし、我が国にもたらされた唐様は、日本の文化や風土に合った様式へ変貌していくことに‥なっちゃぅ。

例えば、日本大陸は雨季が長く湿気も多い。こうした気候気象条件に対応すべく、建造物には次のような特徴がそなわった。

⭐︎縁側へ雨が降りこんだり雨水が垂れたりしないように建造物の軒の出も深くする。(張り出し部分を長くする)。

⭐︎屋根の勾配に角度をつけて(急勾配にして)、雨漏りを防ぎ、水ハケを良好にした。

‥以上、夢殿の改造にも、このような背景があったと考えられます。

夢殿の宝珠

夢殿の屋根の上に、球状の立派な飾りがついているのをご存知ですか?

この飾りは「露盤宝珠(ろばんほうじゅ)」といいます。

奈良 法隆寺・夢殿の宝珠↑法隆寺 夢殿の宝珠「露盤宝珠」の画像(写真)

露盤とは玉の土台のことで、「仏舎利(釈迦の遺骨)」を収めた入れ物を意味します。

宝珠は球の上部を少し尖らせた形で、夢殿の本尊「救世観音像」も持っています。

これは「如意宝珠」といって、いかような願望をも叶える力を持つ玉とされ、地蔵菩薩像などの持物としても用いられるほか、寺院の堂塔の上に取り付けられる姿態を散見する。

殊に、夢殿の屋根の宝珠にブッ刺さっている無数の針のようなものは、「光芒(こうぼう)」と呼ばれる光の筋に‥なっちゃぅ。

宝珠下の皿のような部分は「宝傘(ほうさん)」、その下の膨らみは「宝瓶(ほうびょう)」と呼ばれるもの。

宝傘は仏の加護を意味する傘、宝瓶は、お供え用の香水などを入れる瓶をイメージしたものとされる。

法隆寺 夢殿の歴史(年表)

法隆寺 夢殿は、奈良時代に造営された法隆寺 東院伽藍(とういんがらん)の中心となる一宇。

その「東院伽藍」とは、かつて聖徳太子の斑鳩宮があった場所と…なっちゃぅ。

歴史
605年(飛鳥時代) 今の東院伽藍がある場所に、聖徳太子が斑鳩宮を建てて移住
607年 法隆寺が創建される。
622年 聖徳太子没
643年 蘇我入鹿による焼き討ちにあい、斑鳩宮焼失。
聖徳太子の王子である山背大兄王を始め一族は法隆寺で自決。
739年頃(奈良時代) 法隆寺の僧、行信が斑鳩宮跡に夢殿を含む「上宮王院(じょうぐうおういん)」を建立。
本尊「観音菩薩立像(救世観音像)」が安置される。
(後に上宮王院は法隆寺に統合される)
700年代末 「夢殿」の呼称で呼ばれ始める
859年頃 道詮による修理
859年頃 道詮による修理
1230年(平安時代) 大修理。夢殿の史上最大規模の修理となった。
鎌倉時代 本尊「救世観音像」の修理
1688年~1704年(江戸時代/元禄期) 本尊「救世観音像」の修理
1884年 明治政府の依頼で調査に訪れたフェノロサの説得で、
秘仏とされていた救世観音像を安置する厨子が開けられる。
※厨子:仏像などを収める二枚扉の入れ物
1934年 昭和の大修理。発掘調査も実施され、
当時の掘立柱が発見される。
この調査では建物が数棟建てられていたことが明らかとなり、
東院伽藍の創立当初の回廊や南門の大きさなども明らかにされた。
1951年 国宝に指定

鎌倉時代の修理は法隆寺夢殿史上最大規模となった

法隆寺夢殿は創建以降、幾度にも及ぶ修理が実施されており、その中でも特に大修理となったのが1230年(寛喜二年)の大修理と‥なっちゃぅ。

主に改造された点
  • 組物を一段上げる形で積み重ねた
  • 軒の部材を新材へと交換
  • 軒の出を増した
  • 屋根勾配を強くした

….etc

1230年の大修理では、組物を一段上げて豪壮感をもたせるなど、創建当初と比べると建物の高さが増した恰好となった。

これは鎌倉時代の武骨さや野暮ったい気風がよく反映された建造物へと改造されたことになっちまぅのだが、あくまでも従前の建築様式を尊重・踏襲する形での改造とされる。(いつでも従前の建物へ戻すことのできる度合いの改造)

昭和時代に掘立柱の穴が検出された

法隆寺 夢殿は1934年(昭和九年)に実施された発掘調査により、堂舎建造に用いられたと見られる掘立柱の穴が素敵に検出されており、当時の伽藍配置や規模などが明らかとなった。

謎に包まれた法隆寺夢殿の創建年

「法隆寺東院縁起」によれば、夢殿の創建は739年(天平11年)とされており、太子が622年(推古三十年)に49歳で逝去したのが事実であるならば、その約100年後に営まれたことに‥なっちゃぅ。

殊に、法隆寺東院資財帳に記された夢殿の初見が761年(天平宝字五年)の項に見えることから、少なくとも761年以前の創建とされおり、現今、夢殿の創建年については、太子が逝去した622年〜761年の間に建立されたという見解も‥あっちゃぅ。




夢殿内部の安置仏像一覧

夢殿の本尊「木造観音菩薩立像(救世観音像)」【国宝】

奈良 法隆寺・夢殿・「本尊・木造観音菩薩立像(救世観音像)」

造仏年 推定629年~654年
像高 178.8cm
造立方法 クスノキ一木造
金箔押し
作者 不明

由緒

救世観音像の完成は、夢殿が建立されたとされる739年よりも前で、夢殿に安置されるまでどこにあったのかはわかっていません。

この推定造仏年とはずれが生じますが、聖徳太子が亡くなる622年より前に彫られた、聖徳太子の等身大の像であるとも伝えられています。

髪や衣の一部以外は両腕や手に持っている宝珠まで1本の木材から掘り出す一木造で、下地の上に金箔を押してあります。

「止利式」という、中国北魏(386年~534年)の様式の影響を受けた作品で、アルカイックスマイルと呼ばれる、口元に笑みを浮かべた神秘的な笑み、アーモンド形の目、左右対称性、平たい体つきといった特徴を持ちます。

止利式の仏像として著名なのは、法隆寺金堂釈迦三尊像です。

一方で救世観音像は、やや釣り目で鼻が大きく、唇が厚く、鼻の下のライン(人中線)が強調されている点が個性的です。

「救世観音(像)」という呼称は、1100年代(平安時代末期)には使われていたようです。

「救世観音」というのが何なのか、また夢殿の観音菩薩立像になぜこの呼称がついたのかについては諸説あり定かではありません。

しかし、聖徳太子に対する信仰が盛り上がる中、「太子は観音様の生まれ変わり」として観音菩薩と同一視する見方もあったようです。

殊に、本像はグルグル巻きにされていたとのことで保存状態が良く、金箔が残っているのも、思わず”死人”になる勢いほど素敵に”視認”できる。 どんな視認や

「法隆寺・夢殿「救世観音像」については当サイトの以下↓の別ページでご紹介しております。

関連記事: 法隆寺(夢殿)・救世観音菩薩立像 【国宝】

夢殿「行信僧都坐像」【国宝】

法隆寺・夢殿「行信僧都坐像」

738年頃に上宮王院を建立した「行信(ぎょうしん)」という人物については、つまびらかにされていない。

しかし、738年に律師(りっし/寺院・僧侶を管理する役職の第3位)、その後、僧都(そうず/同第2位)へと素敵に昇格した高徳の僧侶だったといわれる。

由緒

夢殿には「行信僧都坐像」が安置されています。

毎年10月22日には、命日の法要である「行信忌」が行われます。

859年頃に夢殿を修理した行信は法隆寺で出家し、東大寺で学んだ僧で、晩年は律師になりました。

聖徳太子をあつく敬い、廃れかけていた法隆寺東院の修理と中興に力を注いだといいます。

行信僧都坐像についての詳細は以下の別ページにてご紹介しております。

関連記事: 法隆寺・夢殿「行信僧都坐像」【国宝】

夢殿「道詮律師坐像」【国宝】

法隆寺・夢殿「道詮律師坐像」

造仏年 平安時代
像高 87.3㎝
材質 塑像
造立方法 クスノキ一木造
金箔押し
作者 不明
国宝登録指定年月日 1953年(昭和28年)3月31日

由緒

同じく夢殿の西側には、九世紀後半作の稀有な塑像である「道詮律師坐像」が安置されています。

道詮は武蔵国出身で法隆寺東院の院主「寿仁(じゅにん)」に出会い、出家。

以来、法隆寺の学僧としての道を歩むことになり、真言密教および三論を修する。

晩年は弟子たちに講義を行うなど、法隆寺 隆昌の礎を構築した人物として知られています。

尚、毎年3月2日には「道詮忌」が奉修される。




聖徳太子十六歳孝養像【重要文化財】

造仏年 鎌倉時代
像高 91.1㎝
材質 木造
造立方法 彩色
切金
作者 不明

由緒

夢殿内部の東側にの厨子の内部には、童児姿の像が安置されていますが、この像こそが聖徳太子十六歳の頃を表現したとされる像です。

「孝養(こうよう/きょうよう)」とは、早い話が「親孝行」という意味です。

本像が左手に持っている持物は「柄高炉(えごうろ)」と素敵に称し、太子の父親たる「用明天皇の病気平癒を祈願する」という思いが込められて制作されたもの。

寂しげでおぼろげな瞳に、こわばった口元をしており、今まさに不安の胸中にある無念さが像容としてにじみ出ています。

一方でこれが貴人だと知らせるためか、肌色で着色されたフっくらとした顔立ちに、肩から下げる袈裟には金泥の団花紋を散らし、切金があしらわれた極彩色で彩られた像です。

かつて法隆寺 夢殿が描かれた紙幣もあった!

夢殿が初めて紙幣の図案として採用されたのは1930年の百円札でした。

夢殿が初めて紙幣の図案として採用されたのは1930年の百円札表に聖徳太子の肖像と夢殿、裏に遠望した法隆寺という組み合わせです。

1944年にお札の大きさなどが変更されてもデザインは変わりませんでしたが、1945年に夢殿が消え、聖徳太子が中央に描かれた百円札になりました。

1946年にはまた聖徳太子と夢殿が描かれたデザインが復活し、1950年には表に聖徳太子、裏に夢殿という組み合わせの千円札が出ました。

その後1957年、聖徳太子の肖像は五千円札の表面に採用されましたが、裏面は夢殿ではなく日本銀行になりました。

しかし1958年に一万円札の表面に聖徳太子が登場した時には、夢殿は「すかし」の柄として再度用いられました。

聖徳太子や夢殿の絵の紙幣は現在発行されていませんが、1946年以降のものは今でも使えるようです。

法隆寺 夢殿「本尊特別公開日(期間)」

本尊「救世観音像」が見られるのは、毎年下記の期間のみ💘

夢殿・春の特別公開(特別拝観)

・4月11日~5月18日

夢殿・秋の特別公開(特別拝観)

・10月22日~11月22日

関連記事:法隆寺の拝観時間(営業時間)や観光所要時間 一覧

混雑具合

公開期間中は待ち列が発生し、拝観までに20~30分待つこともある。

空いている時間帯

  • 開所間際(午前8時〜9時30分くらいまで)
  • 閉門1時間前

通常拝観でどこまで見られる❓

本尊を囲む厨子(ずし/絢爛豪華な収納箱)の扉は開けられていない。

けれども、その周囲に安置されている「行信僧都坐像」「道詮律師坐像」「聖徳太子立像」「聖観音立像」は金網越しに見ることができます。

法隆寺 夢殿の拝観料金や拝観時間について

‥は!下記ページを素敵に要チェック💘




法隆寺の夢殿の見どころ

しだれ桜

夢殿の前には「しだれ桜の木」があります。

満開になると向こう側にある夢殿が見えなくなってしまうほど、大きな木です。

「ソメイヨシノ」も素敵ですが、「しだれ桜」も独特の趣があっていいですよね。

実はこの桜、「夢しだれ」というさだまさしさんの歌にも歌われています。

夢殿のしだれ桜を「夢しだれ」と呼んだのは、文芸評論家で俳人の故・山本健吉さんとされています。

詩的で素敵なネーミングですよね。

しだれ桜にも色々な種類がありますが、夢殿の桜は、ソメイヨシノと同じ時期(4月初め頃)に見ごろを迎えます。

関連記事:【法隆寺境内で花見🌸】桜の開花状況(見頃)や観桜のスポットを….組体操しながら知る予定❓

【補足】法隆寺・夢殿をめぐる謎

聖徳太子の怨霊を供養するために夢殿を建てたという説を裏付けるような話は、本尊「救世観音像」にもあります。

時期は判然としませんが、おそらく夢殿に本尊として安置されてまもなく、この救世観音像は秘仏扱いになったと推察されます。

1884年(明治17年)、その姿を最初に拝んだフェノロサによると、像は長さ450mの白い布でぐるぐる巻きにされ、ほこりに埋もれていたとのこと。

フェノロサが調査に訪れた際にも、「聖徳太子の怒りに触れ、たたりがある」という教えから、僧侶たちは救世観音像のお披露目を、かたくなに拒否したといいます。

フェノロサとは?

アーネスト・フェノロサとは、1878年(明治11年)に25歳の若さで、明治政府がアメリカから招聘した、いわゆる「お雇い外国人」と呼ばれる方です。(東大の教授でもあった)

フェノロサは、日本美術に心酔してしまい、心底、日本美術を愛し、日本の古美術品を世界へ紹介することにその生涯を費やした。

現在は、滋賀県の三井寺の法明院に永眠されています。

このように法隆寺の僧侶たちが受け継いできた伝統や教えの由来や根拠は定かではありませんが、少なくとも江戸時代に行われた大修理から以降、法隆寺の僧侶たちですら、一度も救世観音像のお姿を拝むことはできなかったと云われています。

秘仏とするだけではなく、「布でぐるぐる巻き」というところに、「やはり怨霊を封印するまじない(呪術)の意味合いがあったのではないか?」‥などという想像が働きます。

法隆寺の僧侶を恐れさせていた「聖徳太子のたたりがある」という教えも、「夢殿は単に故人を偲び供養するだけの建物ではないのでは?」‥という見方もできます。

「救世観音像」は本当に「怨霊を封じ込めた像」かもしれない

現在は、春と秋に誰でもお目にかかれる救世観音像ですが、ひょっとすると本当に「怨霊を封じ込めた像」かもしれないのです。

殊に、1200年代前半(鎌倉時代)に法隆寺の僧、顕真によってまとめられた「聖徳太子伝私記」によると、次のような話も素敵に登場する。

⭐︎救世観音像を彫った仏師が、像の完成後すぐに謎の死をとげた

⭐︎鎌倉時代に救世観音像を模倣したものを作ろうとした仏師が完成前に亡くなった

⭐︎なぜ秘仏とするだけではなく、布で巻いたのか。

⭐︎聖徳太子のたたりという伝承はどうして起こったのか。

⭐︎救世観音像に関わった仏師の死に関する伝承には、どんな意味があるのか。

以上のようにこの夢殿と救世観音像は、今現在に至っても多くの謎が残されたままになっています。

法隆寺 夢殿の場所(地図)

夢殿は西院伽藍と東院の中間地点に位置する「東大門」を出て、さの先の参道を500mほど直進した先に位置します。

夢殿へ入る際は、別途、拝観料金を支払う必要がありますのでご注意ください。

法隆寺は基本、西院へ行く方がほとんどなので拝観と合わせたセット券の販売を行っていますが、東院(夢殿)のみの拝観もできます。

境内の建造物一覧(案内図)

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